足立郡(読み)あだちぐん

日本歴史地名大系 「足立郡」の解説

足立郡
あだちぐん

「和名抄」にみえ、訓は東急本に「阿太知」、名博本に「アタチ」とある。北武蔵の東部に位置し、およそ荒川と元荒川・綾瀬川に挟まれた北西―南東方向に狭長な地域である。江戸時代の郡境は北から東は埼玉郡・葛飾郡、西から南は大里郡・横見よこみ郡・比企郡・入間いるま郡・新座にいくら郡、豊島としま郡に接し、現在の北足立郡伊奈いな町・浦和市・川口市・鳩ヶ谷市・蕨市・戸田市・与野市・大宮市・上尾市・桶川市・北本市と北足立郡吹上ふきあげ町・草加市・鴻巣市の大部分および東京都足立区にあたる。

〔古代〕

平城京の長屋王邸宅跡から出土した木簡に「武蔵国足立郡土毛蓮子一斗五升 天平七年十一月」とあるのが、現在のところ郡名の初見。足立郡産の蓮の実が献上されたことを示している。「和名抄」高山寺本には堀津ほつと殖田うえた稲直いなお大里おおさとの四郷が記され、東急本では郡家ぐうけ発度ほつと余戸あまるべの三郷が加わる。郡衙は郡家郷にあったと思われるがその所在は明らかでない。郡家郷の比定地は大宮氷川神社周辺が有力とされている。氷川神社は天平神護二年(七六六)に神戸三戸を与えられ(新抄格勅符抄)、のちに延喜式内大社に列せられたが、氷川神を奉斎していたのは後述の武蔵宿禰一族と推定されている(新編埼玉県史)。「延喜式」神名帳には氷川神社のほか「足立アシタテ神社」「調ツキノ神社」「多気比売タケノヒメノ神社」の三社が載る。

郡内の有力者として、天平宝字八年(七六四)藤原仲麻呂追討の功績により外従五位下を与えられた丈部直不破麻呂(「続日本紀」同年一〇月七日条)がいる。不破麻呂は神護景雲元年(七六七)一二月六日に武蔵宿禰を賜姓され、その二日後には武蔵国造に任命された(同書)。このことは、従来埼玉郡の豪族が保持していた国造の地位が足立郡へ移り、ここで武蔵における勢力の交替があったことを物語る。次いで「類聚国史」の延暦一四年(七九五)一二月一五日に「武蔵国足立郡大領外従五位下武蔵宿禰弟総為国造」という記事がある。弟総は不破麻呂の子と推定され、武蔵宿禰一族は足立郡の郡司(大領)となり、かつ武蔵国造(令制国造)の地位を継承していたことが知られる。旧姓丈部直は、阿倍氏が管理する部民である丈部を在地で押えていた豪族であることを示し、この関係から武蔵宿禰一族は、中央の大族阿倍氏へつながっていたものと思われる。延暦六年四月一一日、足立郡の采女として中央へ出仕していた武蔵宿禰家刀自が「掌侍兼典掃従四位下」という高い地位で没したことが「続日本紀」に記されていることも、武蔵宿禰一族が中央と深くかかわっていたことを裏付けている。


足立郡
あだちぐん

武蔵国の東部に位置した郡。おおよそ西を荒川・隅田川、東を元荒もとあら川・綾瀬あやせ川に画され、北西―南東方に狭長な地域である。古代から存在し、明治一一年(一八七八)郡区町村編制法の施行により、南部が東京府南足立郡、北部が埼玉県北足立郡となり消滅。「和名抄」東急本に「阿太知」、名博本に「アタチ」の訓が付せられている。江戸時代の郡境は北から東にかけて埼玉郡・葛飾郡、西から南にかけて大里おおさと横見よこみ比企ひき・入間・新座にいくら・豊島の各郡と接し、現在の足立区のほぼ全域と、埼玉県の北足立郡吹上ふきあげ町・鴻巣市から北本市・桶川市・上尾市・伊奈いな町・さいたま市・草加市・鳩ヶ谷市・川口市・蕨市・戸田市にかけての一帯にあたる。「和名抄」所載の郷として堀津ほりつ殖田うえた稲直いなお郡家ぐうけ・大里・余戸あまるべ発度はつとの諸郷が知られ、下郡に相当。足立区の伊興いこう遺跡の辺りに堀津郷を比定する説がある。また、余戸郷が足立区域にあたるとする所見があるが、格別の根拠はない。「延喜式」神名帳には足立郡四座として足立あしたて神社・氷川神社・調つき神社・多気比売たけひめ神社の四社をあげるが、都内に比定される神社はない。

〔古代〕

郡名の初出は平城京左京三条二坊のいわゆる長屋王邸跡から出土した木簡で、「武蔵国足立郡土毛蓮子一斗五升 天平七年十一月」とあるもの。蓮子は蓮の実で薬用とされた。蓮は湿地で栽培するものであるから、足立郡の郡名由来を蘆立つとする所見に合致している。武蔵国国分寺瓦中に「足」と押印ないしヘラ書したものがあり、特異なものとして足立郡と久良郡を併記したものもある。足立区では舎人とねり遺跡の所在する舎人のあたりの標高が最高であるが、それでも五メートル程度しかない。ここは地形的には毛長けなが川の自然堤防上にあたり、区内では最初に陸化がすすんだところとされ、近隣に古墳時代の有力な集落地である伊興遺跡が位置している。足立郡の郡家は郡家郷に所在し、同郷はさいたま市に鎮座する氷川神社の辺りと考えられている。当郡の傑出した人物として丈部不破麻呂がおり、「続日本紀」によれば、天平宝字八年(七六四)一〇月七日に藤原仲麻呂の乱鎮圧過程で功績をあげ正六位上より外従五位下に叙され、近衛員外少将のまま神護景雲元年(七六七)八月二三日に下総員外介に任命されている。同年一二月には姓丈部直を改め武蔵宿禰を賜り、武蔵国造に任命されている。同三年六月には上総員外介となり、八月従五位上に昇叙し、宝亀四年(七七三)二月には左衛士員外佐を帯び修理佐保さほ川堤使となっている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の足立郡の言及

【東京[都]】より

…管轄域は荏原,豊島両郡と多摩,足立,葛飾3郡の一部であり,多摩郡の大部分は神奈川県に属した。72年東京府所管の多摩地方も神奈川県に移管したが,まもなく東京府に再編入,その後75‐76年に埼玉県下の足立,葛飾両郡の一部が東京府に編入された(南足立郡,南葛飾郡)。次いで78年伊豆七島が静岡県から,80年小笠原諸島が内務省から移管され,さらに93年神奈川県下の多摩地方(当時は西多摩郡,北多摩郡,南多摩郡)も移されて,旧多摩郡全域が管轄下に置かれ,その後小地域の編入は何度かあったものの,ほぼ現在の都域が確定した。…

※「足立郡」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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