日本歴史地名大系 「足立郡」の解説
足立郡
あだちぐん
- 埼玉県:武蔵国
- 足立郡
〔古代〕
平城京の長屋王邸宅跡から出土した木簡に「武蔵国足立郡土毛蓮子一斗五升 天平七年十一月」とあるのが、現在のところ郡名の初見。足立郡産の蓮の実が献上されたことを示している。「和名抄」高山寺本には
郡内の有力者として、天平宝字八年(七六四)、藤原仲麻呂追討の功績により外従五位下を与えられた丈部直不破麻呂(「続日本紀」同年一〇月七日条)がいる。不破麻呂は神護景雲元年(七六七)一二月六日に武蔵宿禰を賜姓され、その二日後には武蔵国造に任命された(同書)。このことは、従来埼玉郡の豪族が保持していた国造の地位が足立郡へ移り、ここで武蔵における勢力の交替があったことを物語る。次いで「類聚国史」の延暦一四年(七九五)一二月一五日に「武蔵国足立郡大領外従五位下武蔵宿禰弟総為国造」という記事がある。弟総は不破麻呂の子と推定され、武蔵宿禰一族は足立郡の郡司(大領)となり、かつ武蔵国造(令制国造)の地位を継承していたことが知られる。旧姓丈部直は、阿倍氏が管理する部民である丈部を在地で押えていた豪族であることを示し、この関係から武蔵宿禰一族は、中央の大族阿倍氏へつながっていたものと思われる。延暦六年四月一一日、足立郡の采女として中央へ出仕していた武蔵宿禰家刀自が「掌侍兼典掃従四位下」という高い地位で没したことが「続日本紀」に記されていることも、武蔵宿禰一族が中央と深くかかわっていたことを裏付けている。
足立郡
あだちぐん
- 東京都:武蔵国
- 足立郡
武蔵国の東部に位置した郡。おおよそ西を荒川・隅田川、東を
〔古代〕
郡名の初出は平城京左京三条二坊のいわゆる長屋王邸跡から出土した木簡で、「武蔵国足立郡土毛蓮子一斗五升 天平七年十一月」とあるもの。蓮子は蓮の実で薬用とされた。蓮は湿地で栽培するものであるから、足立郡の郡名由来を蘆立つとする所見に合致している。武蔵国国分寺瓦中に「足」と押印ないしヘラ書したものがあり、特異なものとして足立郡と久良郡を併記したものもある。足立区では
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報