郡家郷(読み)ぐうけごう

日本歴史地名大系 「郡家郷」の解説

郡家郷
ぐうけごう

和名抄」の当郷に訓はないが、淡路国津名郡の郡家郷に同書東急本は「久宇希」の訓を載せる。東急本によれば全国に一五の郡家郷があるが、高山寺本は当郷のみを例外的にあげるにとどまり、他はすべて欠如している。郡家とは郡という行政単位の役所の建物(郡衙)のことで、郡家郷は郡行政の中心地域とみられ、郡司などの中心氏族の居住した場所でもあった可能性がある。


郡家郷
ぐんけごう

「和名抄」東急本に七番目の郷として記載される。郷名から大野郡の郡衙所在地と推定される。比定地は現揖斐いび郡大野町の川合かわい地区に郡家ぐげの地名があり、同地を中心とする一帯にあてることで諸説一致している(「濃飛両国通史」「揖斐郡志」「岐阜県史」など)。同地区に比定することは根尾ねお川沿いに大野町平野部を南下する郷配列からも承認できる。また同地区は大野町平野部のほぼ中央に位置し、郡衙の所在地にふさわしい立地条件も備えている。なお「日本地理志料」「揖斐郡志」などは郷域に西の五之里ごのりを加えた地域とするが、おおむね承認できる。さらに本巣もとす郡との郡境根尾川河道の推移から、現本巣郡内にも郷域は及んでいたと考えられ、現在の根尾川を挟んで対岸にある現本巣郡真正しんせい弾正だんじよう地区一帯も郷の一部であった可能性が高い。


郡家郷
ぐんげごう

古代の那珂なか郡家ぐんけ(和名抄)の郷名を継ぐ。郡家町を遺称地とし、一帯に比定される。鎌倉時代前期から後期にかけての頃は山城醍醐寺三宝さんぽう院領となっていた。正嘉元年(一二五七)一二月二八日の三宝院門跡憲深の譲状案(醍醐寺文書)によれば、この三〇余年以前より朝廷の御祈祷料所として同院へ寄せられていたという。門跡となった憲深は、後嵯峨院の乳母大納言二位(足利義氏娘)の沙汰により宣旨を得て当郷を知行している。


郡家郷
ぐんけごう

「和名抄」東急本所載の郷。郡の主郷で、郡衙があったと思われるが別に郡名を引く可児郷も存在し、両郷の関係が問題となる。郡開発当初可児郷を中心としていたものが、その後当郷に移ったとする推測もある(「御嵩町史」など)。両郷が郡の中核的位置をなしたこと、おそらく隣接していたことは確認しておいてよい。比定地に関しては、現御嵩みたけなかに残る顔戸ごうどの地名を郡戸の転訛したものと考え、同地を中心とした可児川流域の平坦地にあてる説が一般的である。「大日本地名辞書」のあげる現御嵩町東部地域は可児郷にふさわしいと思われる。「濃飛両国通史」は同町西部の伏見ふしみ地区から現可児市広見ひろみ、その南の久々利くくり地区にわたるものとし、「御嵩町史」は現御嵩町中・伏見の一部と現兼山かねやま町および現可児市広見の大部分としている。


郡家郷
ぐんげごう

「和名抄」記載の津名郡郡家ぐうけ郷の後身ともみられる。貞応二年(一二二三)の淡路国大田文に津名郡の国領として郡家郷がみえる。田三〇町三反(除田一一町七反二四〇歩・残田一八町五反一二〇歩)・畠二二町九反一八〇歩(除畠二町八反一八〇歩・残畠二〇町一反一二〇歩)で構成され、一宮社(現伊弉諾神宮)一所、同神宮寺一所を含んでいた。地頭は駿河入道殿とあり、鎌倉幕府重臣中原親能の子の中原季時であった。ちなみに季時は同郡内の山田やまだ保の柳沢やなぎさわ草加くさか分、蟇浦ひきのうら(現北淡町)の地頭でもあった。


郡家郷
ぐうけごう

「和名抄」に訓はなく、高山寺本は当郷を欠く。関係する古代史料はないが、郷名によって郡衙の存在する郷であったことが知られる。郡衙は一般に郡司の本拠付近に営まれる傾向があり、天平宝字四年(七六〇)一一月一八日付の東大寺三綱牒(東南院文書)によって知られる当郡の郡司である吉士船人や三宅忌寸広種の住む地域であった可能性がある。「日本地理志料」は長柄ながら本庄ほんじよう国分寺こくぶんじ(現大淀区)南方みなみかた(現東淀川区)北野きたの天満てんま(現北区)などの広大な地域かとし、「大日本地名辞書」は天満付近かとする。


郡家郷
ぐうけごう

「和名抄」所載の郷。高山寺本には記載されない。東急本・刊本とも訓を欠くが、東急本において淡路国津名つな郡郡家郷の訓注として「久宇希」と記す。郷名は江沼郡の郡家が置かれていたことにちなむと考えられる。郡家の位置は、江沼平地の南、現加賀市別所べつしよ町とみる説(日本地理志料)、江沼平地の南東、同市しよう町とみる説(加賀志徴)、江沼平地の西、同市菅生すごう町とみる説(加能郷土辞彙)などがある。郡家郷に関連すると思われる地名としては、平城京長屋王家木簡に「(表)越前国江沼郡々里葛木直安倍五斗」「(裏)江沼臣小(益カ)五斗 并一石」とある。木簡は年紀を欠くが、長屋王家木簡の多くが溝へ廃棄された時期は霊亀二年(七一六)末と考えられており、少なくともそれ以前のものであろう。


郡家郷
ぐうけごう

「和名抄」所載の郷。同書高山寺本には記載がなく東急本も訓を欠くが、淡路国津名つな郡の同名郷に東急本が「久宇希」の訓を載せる。天平勝宝八歳(七五六)八月二二日の東大寺三綱牒(東大寺文書)に「摂津国河辺郡郡家郷」とみえる。川辺郡の郡衙が置かれたことによる郷名であろう。郷域について「摂津志」は山本やまもと(現宝塚市)の南、鴻池こうのいけ(現伊丹市)にあてる。「日本地理志料」は鴻池・荻野おぎの新田中野しんでんなかの(現同上)安倉あくら川面かわも(現宝塚市)の諸邑にわたるとして、現伊丹市北西部から現宝塚市南東部にかけての地域に比定している。


郡家郷
ぐうけごう

「和名抄」所載の郷。同書高山寺本にはないが、東急本・名博本・元和古活字本にみえる。諸本ともに訓を欠くが通例に従う。「日本地理志料」は式内社「小被をふすまの神社」の所在地、現寄居よりい町の富田とみだとその周辺、「大日本地名辞書」は現東松山市の唐子からこ地区の神戸ごうどとその周辺とする。


郡家郷
ぐうけごう

「和名抄」所載の郷。同書高山寺本にはみえない。東急本は「久宇希」と訓ずる。当郷は現一宮いちのみや町の郡家ぐんげを遺称とし、淡路国一宮で「延喜式神名帳に載る「淡路伊佐奈伎イサナキノ神社」(名神大社)が鎮座する地とする説がある。しかし一方で古代の郡衙は津名郷にあって、「和名抄」東急本・元和古活字本の「郡家」は「駅家」の誤写であり、駅家とは由良ゆら(現洲本市)に当たるという説がある。高山寺本に「郡家」がみえないのがその証拠であるという。


郡家郷
ぐうけごう

「和名抄」所載の郷。同書高山寺本にはないが、東急本・名博本・元和古活字本にみえる。諸本ともに訓を欠くが、通例に従う。「風土記稿」「日本地理志料」は現狭山市とし、「大日本地名辞書」は川越市の久下戸くげどとその周辺とする。入間郡家の所在地で、宝亀三年(七七二)一二月一九日の太政官符(天理図書館所蔵文書)によると、入間郡正倉四宇が火災に遭い、糒穀が焼け百姓一〇人が火傷を負ったが、その故を「在郡家西北角神□□出雲伊波比神祟云」と記す。


郡家郷
ぐんけごう

「和名抄」東急本所載の郷。「大日本地名辞書」がいうように、厚見郷と同一地域とするか否かはともかく、同郷と密接にかかわる郷ではある。天喜元年(一〇五三)七月日の茜部庄司・住人等解案(東大寺図書館蔵)は、東大寺領茜部あかなべ庄の四至について記し、「北限三宅寺」とある。この三宅寺について「岐阜市史」は大化前代の屯倉にかかわると考えるより、むしろ評家であって、大宝令以前における評の治所とみるべきで、それが郡家として引継がれたとしている。


郡家郷
ぐうけごう

「和名抄」所載の郷。同書高山寺本にはないが、東急本・名博本・元和古活字本にみえる。諸本ともに訓を欠くが通例に従う。「風土記稿」「日本地理志料」は現小川おがわ町の増尾ますお一帯とし、「大日本地名辞書」は現東松山市の古凍ふるこおり一帯とする。


郡家郷
ぐんけごう

「和名抄」高山寺本は郷名の記載を欠き、東急本は訓を欠く。「日本地理志料」は「古保利乃美夜介」あるいは「久宇介」と読むとする。久良郡の郡衙のあったところであろう。


郡家郷
ぐうけごう

「和名抄」所載の郷。同書高山寺本にはなく、東急本・名博本・元和古活字本にみえる。諸本ともに訓を欠くが通例に従う。平安時代中頃の武蔵国大里郡坪付(東京国立博物館蔵九条家本「延喜式」裏文書)に「郡家里拾陸町佰捌拾肆歩」とみえる。


郡家郷
ぐんけごう

「和名抄」高山寺本に郷名を欠き、東急本には訓を欠く。那珂郡の郡家(郡衙)が置かれた。中世には京都醍醐寺領の郡家郷がみえる。現丸亀市中央部の郡家ぐんげ町を遺称地とし、一帯に比定される。


郡家郷
ぐうけごう

「和名抄」所載の郷。同書高山寺本にはないが、東急本・名博本・元和古活字本にみえる。諸本とも訓を欠くが通例に従う。郷名からみて足立郡家の所在地とみられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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