道三町(読み)どうさんちよう

日本歴史地名大系 「道三町」の解説

道三町
どうさんちよう

[現在地名]福山市道三町

福山城の正面南方、城下町外れの東西に延びる三筋の街路沿いの町家地。道筋が三つ(道三・中道三・裏道三)あったので町名となったという。なお当町の北裏通、現熊野くまの町方面から城下町に入る山田やまだ口から津留外の辺りを地葺じぶきとよび、「水野家御時代咄伝聞伝留書」に「福山御普請之節、柿板こけら専ら右之場所ニそぎに落し候由、屋根地之板を拵へ候場所と申す訳に、其比自然と地葺と唱来り候由、其後ニ至り候は其姿も無くなりし事故、地引と申誤り、ケ様ニ相成、下々ニ至り候地葺と申ては通し兼候相成、尤右之訳を以、板屋根葺共、大勢集り候、而柿板ニ仕立候事故、職人共追々福山之住人に相成、近辺之道三町へ住居候様ニ相成候ニ付、以前より板屋根葺は不残道三町ニ住宅致し来り候」とある。


道三町
どうさんちよう

[現在地名]千代田区丸の内まるのうち一丁目

明治五年(一八七二)に成立。西・北を大手おおて町一―二丁目、東を銭瓶ぜにかめ町、南を道三堀に囲まれ、南東角に道三橋、南東端にたつノ口がある。道三堀は天正一八年(一五九〇)頃江戸城建設の物資補給路として開削された堀で、沿岸幕府医師今大路道三の屋敷にちなんで名付けられた。町名はこれに由来するが、道三の屋敷は寛永―寛文年間(一六二四―七三)には堀の南側(永楽町二丁目)にあり(寛永江戸図・寛文新板江戸絵図)元禄―享保年間(一六八八―一七三六)に堀の北側に移るものの、常盤橋ときわばし御門内(銭瓶町)であり(沿革図書)、当町内に存在したことはない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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