福山城下(読み)ふくやまじようか

日本歴史地名大系 「福山城下」の解説

福山城下
ふくやまじようか

備後国の東南部、芦田あしだ川河口東岸の常興寺じようこうじ山南端部に築かれた福山城を中心に東・西・南部に広がる。慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の合戦に功があり芸備両国に封ぜられた福島正則は、広島城(跡地は現広島市中区)を本拠としたが、備後の押えとして神辺かんなべ(跡地は現深安郡神辺町)に一族の福島丹波、瀬戸内の要地とも城には大崎玄蕃を配した。しかし元和五年(一六一九)正則は改易され、代わって大和郡山こおりやま(現奈良県大和郡山市)の城主で徳川氏譜代の水野勝成が備後一〇万石の領主となった。この移封は関ヶ原の合戦後の大名配置の政策により、西国・九州に控える外様の有力大名を押える西国鎮衛の任をもつものであった。

〔城下の建設〕

水野勝成は海路鞆に上陸して福島氏時代の城代大崎玄蕃の居館に入り、次いで神辺城に居城。しかし南北朝時代以後備後南部の政治的中心であった神辺城の軍事的重要度はしだいに減じており、また鞆城は山陽道に遠く、水野氏入封の目的にも照らし、水陸の軍事的要地に新しく城を築く必要があった。こうして福山城下町は、まったく新しい計画に基づき、福山城の築城とともに始まる。三つの候補地があったといわれるが、結局芦田川の沖積平野で、かつて海中の小島であった孤丘常興寺山に平山城を築き、その周辺ならびに南側の海岸を埋めて城下町を形成した。

元和五年の冬、勝成は常興寺山麓のまつ(現護国神社鎮座地)に仮の住いを営み、目前の山に縄張りして、城地の整備を始めた。起工にあたっては勝成みずから縄張りを督し、総奉行に家老中山将監重盛をあて、そのもとで小場兵左衛門が監督にあたり(小場家文書)、すでに機能を発揮していた大坂・江戸や広島・三原・岡山など隣藩城下町の長をとり、設計・構築された。当時常興寺山には常興寺の伽藍や八幡社の社殿があったがこれをそれぞれ付近の胎蔵たいぞう寺や城下予定地に移し、松山の丘の若宮わかみや八幡宮も現かすみ大杉おおすぎ(古宮)の地に遷座。山の三方を削り、城下町の埋立てに用い、福山湾の海水を引いて外堀となし、芦田川の水を城背にためはす(どんどん池)とし、さらにこの池の水を吉津よしづ川として流す一方、飲料用の上水として城下町一帯に水道を通した。

城下町は、まず城の東・南・西に町地の三倍の広さをもつ侍屋敷を配し(東町・西町と通称)、町地は城の東側、東町との間とし、入江を中心に南北二七町に分け、侍屋敷がそれを囲むようにした。保護と同時に監視をも兼ねた町割である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の福山城下の言及

【福山[市]】より

…山陽新幹線,山陽自動車道を基軸に国道182号線などを整備して交通・流通の拠点性を高め,商業機能を広島市と岡山市の中間地域に拡大させている。【藤原 健蔵】
[福山城下]
 水野氏,松平氏,阿部氏など福山藩万石の城下町。芸備両国を領した福島正則改易のあとをうけて1619年(元和5)備後に入封した譜代の水野勝成(かつなり)は,3ヵ年をかけて深津郡野上村の常興寺山に福山城(久松城,葦陽城ともいう)を築き,芦田川河口の一面干潟の葭原に城下町を建設した。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」