日本歴史地名大系 「遠石庄」の解説
遠石庄
といしのしよう
徳山市遠石付近を荘域とする
立荘の時期は不明であるが、安元二年(一一七六)六月一〇日付の後白河院庁下文案(石清水文書)によって、伝領の経緯を知ることができる。すなわち遠石庄は石清水八幡宮寺別当が相伝し、宮寺検校法印権大僧都光清から修理別当法橋最清に譲与され、久寿二年(一一五五)最清の死にあたり鳥羽法皇の女房美濃局が相続したが、次いで宮寺別当法印大和尚位権大僧都慶清門跡に伝領された。光清の契約状では遠石庄等六ヵ所を鳥羽上皇の六宮道恵に一期を限って年貢を進済したが、仁安年中(一一六六―六九)六宮が病気になると、その後見の法印公経らは本主光清の契約状のことを知らずに鳥羽宮定恵法印房に譲進、しかも院宣でこの安堵を受けた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報