足尾鉱毒事件(読み)あしおこうどくじけん

百科事典マイペディア 「足尾鉱毒事件」の意味・わかりやすい解説

足尾鉱毒事件【あしおこうどくじけん】

栃木県足尾銅山鉱毒流出で1880年代後半から渡良瀬(わたらせ)川沿岸農地が汚染された公害事件。地元からの数次の建議上申にもかかわらず改善がみられなかったため,1897年以来たびたび農民大挙上京して抗議行動を起こし警官衝突,一大社会問題となった。代議士田中正造は1891年に議会に訴えて世に被害の惨状を知らせたが,さらに被害民の鉱毒反対運動が大弾圧をうけると,1901年天皇に直訴した。直訴は失敗したが,これを機に世論は沸騰し,社会主義者やキリスト教徒らの支援が活発化した。これに対し政府は1902年鉱毒調査会を設置し,鉱毒問題を治水問題にすりかえて,事態の鎮静化をはかった。おりから世論の関心が日露戦争へ向かう中,甘言強権により下流谷中村を破壊し,ついで渡良瀬川改修工事に着工田中正造の死などによって鉱毒問題は表面上終わった。しかし汚染源対策が不十分なため,鉱毒被害も足尾山地荒廃もやむことはなかった。→鉱害
→関連項目足尾[町]内村鑑三木下尚江鉱毒島田三郎日本社会党花井卓蔵福田英子古河財閥三宅雪嶺渡良瀬遊水地

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「足尾鉱毒事件」の意味・わかりやすい解説

足尾鉱毒事件
あしおこうどくじけん

古河鉱業足尾銅山の鉱毒による公害事件。日本の公害史上,古くから問題になり,またよく知られた事件である。まず銅精錬量が急増し,精錬の廃ガスである亜硫酸ガスにより,銅山周辺の山林が荒廃,それに原因して,同鉱山周辺を水源地とする渡良瀬川が氾濫。また,精錬廃棄物が同河川に流入し,同河川が荒廃した。そして同河川水を利水している流域農作物へ被害をもたらすにいたった。これらの被害は 1890年頃より,同河川魚の大量浮上などで目にとまるようになり,農作物への加害で流域周辺住民を鉱毒反対運動に立上がらせることとなった。地元選出衆議院議員の田中正造はその運動の中心となり,91年,この問題を帝国議会壇上で取上げ,また 1901年 12月 10日には明治天皇に議院前で直訴するなどした。結局,当局者は 07年6月,栃木県下都賀郡谷中村を取りこわし,同村地域一帯を水没させ,調整池とすることで当面の解決と運動の鎮圧をはかった。このため,同河川流域は鉱毒反対運動の鎮静後も引続き鉱毒にさらされ続けていくことになった。第2次世界大戦後の 72年3月,群馬県太田市毛里田地区の住民らは,明治以降の累積した鉱毒被害補償の調停を公害等調整委員会に申請,積年の損害補償を求めた。これに対して,同委員会は 74年5月,総額 15億 5000万円の補償を古河鉱業に命じる調停案を提示し,住民側,同鉱業双方がこれを受入れ,同年5月 10日調停書に調印した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「足尾鉱毒事件」の解説

足尾鉱毒事件
あしおこうどくじけん

日本の公害の原点。古河市兵衛経営の足尾銅山から流出した重金属を含む鉱滓や酸性廃水によって,渡良瀬(わたらせ)川の中・下流,利根川下流域の10万ヘクタールに及ぶ農地が鉱毒被害をうけた。被害農民は田中正造とともに明治政府に対して足尾銅山の操業停止を訴え,東京へ押し出し(大挙請願運動)を行うなど,強力な鉱毒反対運動を展開,大きな社会問題となった。政府は刑事弾圧を加える一方(川俣事件),日露戦争中に鉱毒問題を治水問題にすりかえて運動を分断し,1907年(明治40)遊水池設置のため谷中(やなか)村民の家屋を強制破壊した。今も足尾には,約2000ヘクタールの禿げ山,旧谷中村(現,栃木市)周辺に3000ヘクタールもの湿地帯が広がり,鉱毒事件の生き証人となっている。

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世界大百科事典 第2版 「足尾鉱毒事件」の意味・わかりやすい解説

あしおこうどくじけん【足尾鉱毒事件】

古河市兵衛経営の足尾銅山(現,古河機械金属株式会社)から流出する鉱毒が原因で,渡良瀬川流域の広大な農地が汚染され,明治中期から後期にかけて一大社会問題化した公害事件。今日の公害問題の特質のほとんどをそなえているため,日本の〈公害の原点〉と称される。1877年(明治10)旧幕時代に掘り尽くして廃鉱同然の足尾銅山を買収した古河市兵衛は,〈鉱源開発第一主義〉をモットーに坑内外の急速な近代化を行った。84年大富鉱帯が発見され,足尾産銅量は2300tに達して全国一となり,90年代は年産数千t台を推移した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「足尾鉱毒事件」の解説

足尾鉱毒事件
あしおこうどくじけん

明治中期の社会問題
古河財閥の経営する足尾銅山から流れ出る毒物が渡良瀬 (わたらせ) 川流域の田畑を荒廃させた。栃木県出身の代議士田中正造が第2議会以後訴えつづけたが,政府は古河に加担してこれを無視した。1897年以来3回にわたって被害農民が大挙上京し請願を試み,1900年には4度目の上京で警官隊と衝突,'01年には田中の天皇直訴まで発展した。このころを頂点として弾圧と切りくずしにより反対運動は衰えた。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「足尾鉱毒事件」の意味・わかりやすい解説

足尾鉱毒事件
あしおこうどくじけん

足尾銅山鉱毒事件

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世界大百科事典内の足尾鉱毒事件の言及

【公害】より

…足尾,別子,日立,小坂の鉱山・製錬所の公害事件や,硫酸工場の煙害に対して農民が訴訟を起こした大阪アルカリ公害裁判が有名である。足尾鉱山の足尾鉱毒事件は,銅製錬後の鉱滓が洪水のたびに大量に流出し,下流の農民の健康や農作物に被害を与えた事件で,のちのイタイイタイ病事件と同じ性格のものである。古河財閥と政府は,被害農民の反対運動を権力によって弾圧した。…

【鉱害】より

…当時の製銅業は,日本資本主義の確立の過程で,茶,生糸などの初期特産物輸出から綿紡績品などの工業製品輸出への転換をつないだもっとも重要な輸出品製造業であり,近代的軍備や技術移植のための財源として国家的な保護のもとに大規模な生産拡大を行い,農業を犠牲にして成長した。 最初の大規模な対決となった足尾銅山における足尾鉱毒事件は,1890年の渡良瀬川の大洪水で銅製錬後の鉱滓が大量に流出したことによって顕著となった農作物などの被害をめぐるものであり,農民側は〈押出し〉と呼ばれた大挙上京請願戦術などをとった。しかし,1900年2月,押出しの途中で農民の指導者が多数逮捕されるという川俣事件が起こり,農民の声は押さえ込まれてしまった。…

【古在由直】より

…99年農学博士,1900年に帰国し,東京帝国大学農科大学教授となる。足尾鉱毒事件の発生初期において,鉱毒被害農民の依頼により,同僚の長岡宗好とともに1890年初めて被害原因を科学的に分析し,河水中から銅の化合物を検出した(結果は1892年〈足尾銅山鉱毒研究〉として《農学会会報》16号に発表)。92年清水紫琴と結婚する。…

【田中正造】より

…《田中正造全集》がある(全17巻,別巻1)。足尾鉱毒事件【菅井 益郎】。…

【土壌汚染】より

…土壌汚染とは,鉱山や工場などから排出された重金属などによって,あるいは農薬散布などによって,土壌中に重金属などの特定の物質が高い濃度で集積,蓄積し,その結果,人の健康や農・畜産物などに被害が生ずることをいう。日本における土壌汚染の歴史は古く,明治初期に足尾銅山の銅などを含有する排水が渡良瀬川流域の農地を汚染し,農作物などの被害が発生していた(足尾鉱毒事件)。しかし,土壌汚染が公害の一種であると法律で規定されるようになったのは,1968年に,厚生省が〈富山県の神通川流域に発生しているイタイイタイ病は,同河川の上流にある三井金属鉱業の神岡鉱山から排出されたカドミウムが水田土壌を汚染し,そこで生産された米を長期間にわたり摂取したことが主原因である〉との見解を発表した後である。…

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