那東村
なとうむら
[現在地名]板野町那東
犬伏村の西にあり、南は矢武村、南東は古城村。北部は阿讃山脈南麓、南部は耕地となっていた。山麓から平坦部への境目に撫養街道がほぼ東西に通り、遍路道として春秋には賑わった。慶長二年(一五九七)の分限帳に那東村とみえ、四一石余が柏木勝左衛門知行分。寛永(一六二四―四四)前期のものと推定される国絵図にみえる「三水村」は同二年までに当村に含まれたとされるが合村の経緯については不詳。三水村は慶長二年の分限帳では二九八石余が野口孫六郎知行分とある。正保国絵図には那東村のみみえ、高三三六石余。寛文四年(一六六四)の郷村高辻帳では田方二〇四石余・畠方一三一石余、芝山と注記される。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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