撫養(読み)ブヨウ

デジタル大辞泉 「撫養」の意味・読み・例文・類語

ぶ‐よう〔‐ヤウ〕【×撫養】

[名](スル)かわいがってやしなうこと。撫育。

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精選版 日本国語大辞典 「撫養」の意味・読み・例文・類語

ぶ‐よう‥ヤウ【撫養】

  1. 〘 名詞 〙 かわいがりやしなうこと。撫育。
    1. [初出の実例]「国司等宜勤加撫養量賑恤」(出典:続日本紀‐和銅五年(712)正月乙丙)
    2. [その他の文献]〔李密‐陳情事表〕

むや【撫養】

  1. 徳島県鳴門市の中心地区。旧板野撫養町。上代からの港町で、塩業の町としても知られた。牟夜。牟野。〔書言字考節用集(1717)〕

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日本歴史地名大系 「撫養」の解説

撫養
むや

撫養川が注ぐ小鳴門海峡東部は古代以来牟夜むや戸・撫養津とよばれ、交通・流通のうえで重要な湊津で、江戸時代に撫養口阿波国から淡路国に至る淡路街道の渡海口となった。撫養口に面する地域、かつて吉野川本流の最下流の川筋でもあったと考えられる撫養川河口部一帯を中心とする地域は撫養と称された。慶長二年(一五九七)の分限帳に撫養とみえ、一〇七石が撫養城に置かれた益田内膳丞知行分としてあげられている。これはあるいは撫養城の城付領にあたるのであろうか。撫養の範囲について、「鳴門辺集」は南浜みなみはま村と西隣木津きづ村の境にある一文字形の池までを撫養というとしている。近世初頭から撫養の沿岸部で塩浜が開発されて慶長一〇年には一〇ヵ村、正保元年(一六四四)には斎田さいた黒崎くろさき大桑島おおくわじま小桑島こくわじま・南浜・北浜高島たかしま三石みついし明神あきのかみ立岩たていわ小島田こしまだ弁財天べざいてんの一二ヵ村となり、塩屋一二ヵ村・塩方一二ヵ村・撫養一二ヵ村などとよばれた(享保一〇年「撫養塩浜開起書」馬居家文書など)

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普及版 字通 「撫養」の読み・字形・画数・意味

【撫養】ぶよう(やう)

いつくしみ育てる。〔史記、呉起伝〕~楚に之(ゆ)く。~至れば則ち楚に相となる。~不の官を捐(す)て、族のなるを廢し、以て戰の士を撫す。~侯、楚の彊(つよ)きを患(うれ)ふ。

字通「撫」の項目を見る

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「撫養」の意味・わかりやすい解説

撫養
むや

徳島県北東部、鳴門(なると)市の中心地区。撫養川河口にあり、古くから畿内(きない)と阿波(あわ)(徳島県)を結ぶ交通の要地であった。「むや」は舟をつなぐ意の「舫(もや)う」の転訛(てんか)で港の意とする説もある。牟夜戸(むやのと)ともいい、鎌倉時代に四国に配流された土御門(つちみかど)上皇も撫養に上陸したといわれる。江戸時代にはアイ、塩、たばこなどの積み出し、米、麦、大豆、肥料などの積み入れでにぎわった。江戸初期に開発された塩田は現在では埋め立てられ、総合運動場や公園に変貌(へんぼう)した。JR鳴門線、国道28号が通じ、神戸淡路鳴門自動車道の鳴門インターチェンジが設置されている。

[高木秀樹]

『浜野虎七著『撫養町誌』(1954・撫養町)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「撫養」の意味・わかりやすい解説

撫養
むや

徳島県北東端,鳴門市の中心市街地で,旧吉野川下流低地の北部にある。藩政時代から塩の生産が盛んであったが,現在は全廃。『土佐日記』には「牟野 (むや) 」と記されている。室町時代には三好氏城下町であったが,天正 13 (1585) 年蜂須賀家政が阿波九城の一つ岡崎城を築いてから,淡路渡海の押えの地として特に発展した。現在も阪神と船の連絡があり,大鳴門橋の完成 (1985.6) により再び四国の玄関口となっている。なお,塩田跡地は総合グラウンド,野球場などに利用。ワカメは名産。

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