縄文時代に行われた土器の総称。その名はE.S.モースが1877年に発掘した大森貝塚発見の縄目文様をもつ土器をcord marked potteryと説明したことに由来する。縄文式土器,縄紋土器と同義であるが,貝塚土器,アイノ式土器,石器時代土器などとよばれたこともあった。日本列島のほぼ全域に分布するが,一時的に北は南千島,南は沖縄本島に達している。地方ごと,時期ごとに形態や文様をはじめ,製作法などの流儀作法全般にわたる独特な特色を示す様式があり,縄文時代全体を通じて約70様式の消長が知られている。継続期間の長い長命型,短期で終わる短命型,また広範に分布する広域型,狭い範囲に限定される局地型など多様である。土器様式の時期的な変化を新旧の順序に編成した縄文土器編年は草創期,早期,前期,中期,後期,晩期の6期に区分されるが,草創期を早期に含めた5期区分も一部に行われている。各時期はさらに10段階前後の様式上の変遷に細分され,縄文時代のすべての文物に相対的な時間的先後関係を与える基準とされている。
草創期では方形平底および円形丸底深鉢の2形式(器形)がある。前者は樹皮籠あるいは編籠,後者は皮袋など旧石器時代以来の既製容器の形態を反映するものではないかとも推定されており,さらに既製容器における縁のかがり孔や紐のイメージを写したと想像される文様が認められる。土器の内外面には,煤あるいは煮こぼれやこげつきなどが付着しており,食物の煮炊き用であったことがわかる。早期には円形の尖底,丸底深鉢の単純な形態となり,縄文,撚糸(よりいと)文,押型文,貝殻文など独特な文様を発達させる。前期に入ると中部・関東地方に貯蔵用の壺や盛りつけ用の鉢などが煮炊き用以外として初めて製作されるようになり,一部近畿地方に波及する。さらに中期には大型の鉢のほか,有孔鍔付土器,釣手土器,双口土器,器台など特殊な形式が増加し,後期以降に注口土器や香炉形土器などを加えて晩期に続く。しかし,西日本および東北北部,北海道では概して土器の種類が未発達で,鉢や浅鉢その他が普及するのは後期以降である。
縄文と一括して呼ばれるものの,縄目文様がすべてに施文されているわけではない。縄文は概して東日本で各時期に多用されるが,西日本では低調であり,とくに後期以降は沈線文や凸帯文のほか無文の傾向を強めてゆく。縄文土器の文様は,その多種多様さにおいて世界の先史時代土器のなかでもきわめて特徴的である。とくに縄文や撚糸文や押型文などの独特な施文具を創造していること,および貝殻文や竹管文など自然界にある独特な形態を施文具に応用している点は重要である。また,篦(へら)状施文具を用いる場合も,沈線や彫刻的な文様施文が行われていて,刷毛や筆様の施文具による彩色手法は低調で,主流とはならなかった。なお,草創期以来,土器を飾る目的で施された装飾性文様が発達するが,やがて特定の観念(思想)あるいは物語的な内容を表現する物語性文様が出現し,とくに中期に隆盛をみる。後期以降は再び装飾的文様化の傾向が強くなる。また自然物の写生や人物などの絵画は一部の例外を除いて描かれることはなかった。
材料としての粘土に混和剤として細かい砂粒を加えて粘性を調節するが,様式によって混和剤の選択にも特色がある。関東地方中期の阿玉台(おたまだい)式土器様式は雲母を大量に含み,器面がきらきら輝くほどである。九州前期の曾畑(そばた)式土器および中期の阿高式土器様式では滑石を含んで土器全体がにぶい光沢を放ち,ぬめりを帯びた手触りがある。飛驒地方早期の押型文系土器様式では黒鉛を混入する。早期末から前期には,植物性繊維を混入したいわゆる繊維土器が全国的に行われている。また草創期の隆線文系土器様式には,動物性の毛髪とみられる混入がある。混和剤によっては,仕上がりの外見上の効果をももくろむ場合や製作の流儀やタブーに関係する場合などもあったのであろう。成形にはろくろは使用されていない。巻上げ法,手づくね法その他があるが,底部から一段ずつ粘土帯を積み上げてゆく方法が一般的であった。大型あるいは屈曲の強い土器においては,粘土の荷重で形が崩れないように,適当に乾燥させながら粘土帯を重ねてゆくが,次の粘土帯と十分に接着させるために刻み目を入れたり,爪楊枝状の細い棒を立て並べたいわゆる鉄筋コンクリートの手法などがある。焼成には土器焼窯など特別な施設はなく,野天で焼かれ,約700~900℃程度の焼成温度と推定されている。
縄文土器の製作技術の由来は不明であるが,炭素14法による測定値の前1万年は,世界最古の土器年代を示す。測定方法の仮定や誤差の問題もあり,ただちに縄文土器を最古と断定することはできないが,少なくとも世界史上もっとも早く出現する土器の一つとみなされる。縄文土器は,弥生文化の普及とともに,まず西北九州で弥生土器と交替しながらしだいに近畿・東海地方で姿を消してゆくが,東日本とくに北海道では縄文土器の伝統を継承する土器様式の製作が長く続いた。
執筆者:小林 達雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
縄文文化にともなう土器の総称。E.S.モースが大森貝塚出土の土器に対して用いたcord marked potteryの語が名称の由来。cord markははじめ索紋(さくもん)と訳されたが,白井光太郎が「縄紋」の訳語をあてた。技術的に轆轤(ろくろ)・回転台による成形技術や窯(かま)による焼成技術をもたない段階の素焼きの土器。文様装飾に富み,縄文を多用する点に造型的な特質がある。人物や動物を表現する文様や大型の把手(とって)・波状口縁なども大きな特質。造型と文様は変化に富み,縄文時代を通じて日本列島各地に地域性の強い70以上の様式が継起して盛衰をくり返した。この様式は,現代の焼物の伊万里(いまり)・唐津(からつ)・備前(びぜん)などの流派と同じく,伝統的な固有の製作流儀と共通する気風をそなえた土器群をさす。早期の押型文系土器,前・中期の円筒土器,晩期の亀ケ岡式土器などは,代表的な様式として著名。存続年代はきわめて長く,約1万年にわたる変遷をたどり,現在では草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期区分を設けている。早期~晩期の5期は,1937年(昭和12)に山内清男(やまのうちすがお)が提唱したもので,押型文系土器や貝殻沈線文系土器に代表される尖底(せんてい)土器の一群を早期,諸磯(もろいそ)式や円筒下層式を前期,勝坂式や加曾利(かそり)E式などの厚手派を中期,堀之内式や加曾利B式などの薄手派を後期,亀ケ岡式とその並行型式を晩期に,それぞれ編入したものである。草創期は,縄文土器の起源にかかわるさらに古い土器群の発見にともない,早期に先行する新たな大別として追補された。形式(器種)には深鉢・鉢・台付鉢・浅鉢・皿・壺・注口(ちゅうこう)土器・有孔鍔付(ゆうこうつばつき)土器・釣手(つりて)土器・香炉形土器・異形台付土器・器台形土器などがあるが,縄文時代を通じて最も基本的な形式は煮炊き用の深鉢で,草創・早期にはこれが唯一の形式であった。形式分化は前期に始まり,中期以後顕著となる。とくに後・晩期には浅鉢・注口土器・壺が増加するとともに,精製・粗製の区別も生じた。
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縄文文化の土器。縄目文様(なわめもんよう)をもつものが多い。
[編集部]
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…なお東南アジアの陶磁については,〈タイ陶磁器〉〈ベトナム陶磁器〉の項を参照されたい。
【日本】
[縄文土器と弥生土器]
日本最古のやきものは縄文土器であり,その発生はいまから1万2000年前にさかのぼる。その後,前3世紀の弥生時代に移るまで1万年近い歴史をもっている。…
…
[日本美術の発祥――縄文美術]
日本美術の歴史は,以前は弥生時代,古墳時代あたりから説をおこされるのが普通であったが,近ごろでは縄文土器の芸術性が認識され,縄文時代にさかのぼるものとされている。遺品にてらしてみるならば,縄文土器の加飾法が進んで美的効果を伴うようになった縄文早期後半あたりから日本美術の歴史が始まるとみてよいだろう。…
…弥生文化に用いられた軟質,赤焼きの土器。縄文土器に後続し,古墳時代の土師器(はじき)に先行する。1884年に東京本郷の弥生町向ヶ丘貝塚(弥生町遺跡)で採集された土器がもとになって,90年代から〈弥生式土器〉の名称が生まれた。…
※「縄文土器」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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