伊豆国(読み)イズノクニ

デジタル大辞泉 「伊豆国」の意味・読み・例文・類語

いず‐の‐くに〔いづ‐〕【伊豆国/伊豆の国】

伊豆
(伊豆の国)静岡県東部、伊豆半島の基部にある市。狩野川や伊豆箱根鉄道が縦貫する伊豆観光の拠点。平成17年(2005)4月に伊豆長岡町韮山にらやま町、大仁おおひと町が合併して成立。人口4.9万(2010)。

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日本歴史地名大系 「伊豆国」の解説

伊豆国
いずのくに

県東端の伊豆半島と、現在東京都に編入されている伊豆諸島を含む地を領域とした国。北西は駿河国、北東は相模国と接する。国名の由来は、国内に温泉が数多く湧出しているところから、「湯出づ」の意とする説があるが、伊豆諸島における多数の式内社の存在や卜部の活動から、「いつく」という語に由来する可能性もあろう。

古代

〔記紀伝承にみる伊豆国〕

当国にまつわる記紀の伝承としては、枯野からのという名の船についてのものが著名である。すなわち応神天皇が伊豆国に命じて長さ一〇丈(約三〇メートル)の大船を建造させ、完成後に船を海に浮べたところ、軽く浮んで船足がとても速かったため、その船を枯野と名付けたという(「日本書紀」応神五年一〇月条)。さらに応神三一年八月条にはその後日談として、枯野が老朽化したため、その部材を薪として塩を焼き、その塩を諸国に配って船五〇〇隻を造らせたこと、船を武庫むこ水門(現兵庫県武庫川河口付近)に浮べたところ、そのとき来航していた新羅の調使を載せた船から出火し、新造船の多くが延焼したこと、その謝罪のために新羅から猪名部らの始祖となる工人を派遣してきたこと、天皇が塩を焼いた薪の燃残りで琴を作らせたところ大変すぐれた音のする琴ができ、その琴にちなむ歌を天皇が詠んだことなどが記されている。なお「古事記」仁徳天皇段には、同様の伝承が河内国のこととして載せられているが、「日本書紀」応神五年一〇月条には、前掲の伝承を載せた後に、枯野という名は軽野の転訛であるという注記があり、この軽野が田方たがた郡の式内社軽野かるの神社や「和名抄」の田方郡狩野かの郷などに基づくものとすれば、この伝承はやはり伊豆国のものとして捉えるべきであろう。さらに「万葉集」巻二〇には、大伴家持が「伊豆手舟」について詠んだ歌二首が載せられており、「日本紀略」は崇神天皇の時のこととして伊豆国から大船が献上されたことを記しており、枯野伝承の背景には当国のすぐれた造船技術についての認識が存在していたと考えられる。

〔伊豆国造と氏族の分布〕

「国造本紀」には、伊豆国造について「神功皇后御代、物部連祖天桙命八世孫若建命定賜国造」とあり、律令制以前に物部氏系の国造が存在したかのように記されている。しかし後述する伊豆国の成立過程などから考えて、当国に存在した国造は七世紀末ないし八世紀初頭頃に設置されたいわゆる律令国造のみだった可能性が高い。その律令国造の初見は、長屋王家木簡中の伊豆国造とその従者に対する米の支給木簡で(「平城宮出土木簡概報」二一―一八頁)、霊亀二年(七一六)のものと推定されている。

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改訂新版 世界大百科事典 「伊豆国」の意味・わかりやすい解説

伊豆国 (いずのくに)

旧国名。豆州。静岡県東部の伊豆半島および東京都に属する伊豆諸島を含む地域。

東海道に属する下国(《延喜式》)。田方,那賀(仲とも),賀茂の3郡からなり,国府は田方郡に置かれ,三島市三嶋大社付近にあったといわれている。《国造本紀》の伊豆国造条には,〈神功皇后の御代,物部連(むらじ)の祖,天桙(あめのぬぼこ)命8世の孫,若建命を国造に定め賜う。難波朝(孝徳)の御世,駿河国に隷(つ)く。飛鳥朝(天武)の御世,分置すること故(もと)の如し〉とみえ,7世紀中ごろ,国が形成され始めたころには駿河国に属したが,680年(天武9)7月,駿河の2郡を分け伊豆国を置いた(《扶桑略記》)。人口は天平期に1万8000余人,延喜(901-923)ごろには2万1000人ほどと推定され,綾,羅,堅魚等を調として貢上した。675年,麻績(おみ)王の一子が伊豆島に流されたのを初見に,伊豆は古来流刑の地として知られ,724年(神亀1)には遠流(おんる)の地とされた。伊豆はまた造船の地でもあり,この国で造られたとする官船枯野の伝説のほか,《万葉集》には伊豆手船の名もみえる。
執筆者:

《北条五代記》に〈伊豆の国は三郡山国也〉とみえ,田方,那賀,賀茂に分かれていたが,中世末に君沢郡が成立。《寛政重修諸家譜》はこれを〈ぐんたく〉と読む。その由来は〈郡宅郷〉に基づく。同郷の初見は1347年(正平2・貞和3)《僧祐禅打渡状》の〈伊豆国郡宅郷内御名田〉という記載であろう。荘園には葛見荘,宇佐美荘,伊東荘,河津荘,稲沢荘,仁科荘,狩野荘,井田荘,江間荘,馬宮荘,蒲屋御厨,塚本御厨等があり,領家には九条家,熊野山,蓮華王院,長講堂,伊勢神宮があった。在地勢力としては北条氏(現,韮山町),伊東氏宇佐美氏工藤氏(伊東市),狩野氏(伊豆市,旧天城湯ヶ島町),加藤氏・田代氏・堀氏(同市,旧修善寺町),仁田氏(函南町),天野氏(伊豆の国市,旧伊豆長岡町)等の武士が成長し,また交通の要地には走湯(そうとう)山箱根神社三嶋大社の宗教的勢力が存在した。

 保元の乱で源為朝が大島に流されたのち,平治の乱後には源頼朝が伊豆配流となり,平氏の監視下におかれることとなった。伊東氏以下,北条氏等も当初は平氏方に立っていたのである。やがて平時忠が知行国主となり,目代には平兼隆が派遣され,韮山山木に居住した。1180年(治承4)源頼朝の挙兵により山木兼隆は討たれ,在地武士の多くが頼朝傘下に集まり,鎌倉御家人となった。頼朝の死後,頼家の修禅寺での暗殺,実朝の横死と相次ぐ中で,沼津の阿野全成父子,仁田氏の没落等伊豆の武士の興亡もみられた。この間,北条義時は伊豆の武士を確実に統制し,以来北条得宗(とくそう)が伊豆国の守護となった。北条時宗はモンゴル襲来にあたり,三嶋明神に祈禱を求め,三薗(御園)の地頭職を廃して三島東大夫の私領としてこれを寄進している。北条氏滅亡直後,高時の遺児時行が信濃で挙兵(中先代の乱)すると伊豆の武士たちも時行に従った。そのころ足利尊氏は駿河国土加利郷(土狩),伊豆国三福郷・長崎郷を三嶋明神に寄進,直義は1337年(延元2・建武4)〈吉野凶徒対治〉の祈禱を命じている。つまり伊豆は足利氏の支配下におかれたのである。同国の守護は直義方の石塔義房,上杉重能となる。51年(正平6・観応2)直義は高師直父子誅伐に河原谷兵庫助の軍忠を命令している。この武士は三島在住のものであろう。翌年尊氏が直義を殺害すると,伊豆守護には畠山国清が任命される。しかし国清は南朝攻略の失敗により鎌倉の足利基氏に失脚させられたことから反抗し,62年(正平17・貞治1)2月神余(かなまり)(神益)城に籠城,ついで三津城,修善寺城で戦い敗走した。韮山の廃寺国清寺はその菩提寺である。

 室町時代,6代将軍義教と関東の足利持氏の対立は一触即発の事態となり,1435年(永享7)持氏と上杉憲実の抗争,さらには54年(享徳3)享徳の乱に発展。幕府が持氏の子成氏と憲実の子憲忠の争いを鎮定するため今川範忠を鎌倉へ派遣したため,成氏は古河へ移り古河公方(こがくぼう)と称し幕府に反抗した。将軍義政は僧であった政知を還俗させて,鎌倉に派遣して関東の安定を図ろうとしたが,政知は関東に入ることができず韮山堀越(ほりごえ)に落ち着き堀越公方と称した。91年(延徳3)沼津興国寺城主であった北条早雲は堀越公方を倒し,たちまち伊豆国を奪い韮山城を根拠地とし,のち小田原へ進出する。早雲の伊豆侵略と民政,在地武士の掌握は着実に進められ,在地武士松下(三津),鈴木(江梨),大見三人衆(上村,佐藤,梅原),富永(土肥),山本(田子),高橋(雲見),村田(妻良)等は早雲入国と同時にこれに従った。一方,早雲に抵抗した柿木の狩野介茂光は討伐された。この戦いに参加した雲見の高橋は96年(明応5)早雲に〈くんこうにおいてはのそミのことくにあるべく候〉と忠節を賞されている。以後1590年(天正18)後北条氏滅亡まで伊豆国はその支配下におかれる。しかし戦国期に伊豆・駿河両国は今川,武田,後北条の国境となり,絶えず不安定な状況のもとにあった。沼津大平に残る《大平旧事記》は1571年(元亀2)〈駿州,豆州,甲州三ヶ国ノ争ひ騒動す。(略)難義至極ニテ一日も安堵ならず〉,80年の北条,武田の戦いについて〈三島初メ在々所々之民家を焼払,一日も干戈動止む時なく(略)一日片時も心の休む隙ぞなし〉と記している。

 伊豆国の家数,棟別銭を推定する史料に《北条家勧進許可朱印状》がある。1559年(永禄2),豆州大御堂上葺の勧進のため,豆州内の家1間につき榛原升で米1升を徴集,その家数8955間半とある。棟別銭の賦課単位である1間の基準は現在不明であるが,伊豆国の棟別銭の総額はこれにより推定可能である。《小田原衆所領役帳》の職人分布をみると,伊豆の職人衆15人,三島は唐紙藤兵衛・円教斎・銀師八木・紙漉4人,奈古屋に大鋸引・切革・青貝師・江間藤左衛門・つか左右師孫四郎・石切・鍛冶,多田に金工・くみひも師4人の棟梁がいる。四日町,三嶋明神前には市が立って繁栄した。
執筆者:

1590年(天正18)小田原戦役により後北条氏が滅び,徳川家康の関東入部が決まると,伊豆国は家康の支配下に入った。家康は,韮山(現伊豆の国市韮山)に1万石の内藤豊前守信成,梅縄(梅名)に5000石の石川日向守家成,下田に5000石の戸田三郎左衛門忠次の3人を配置し,他は伊奈熊蔵忠次,のちに彦坂小刑部元正,大久保長安,井出志摩守正次の代官頭を通して直轄した。家康の伊豆経営は,後北条氏の土豪支配を払拭し,戦禍のため荒廃した農村の復興に重点が置かれた。90年,94年(文禄3),98年(慶長3)の3度の検地によって石高制にもとづく村切りを行った。1601年,内藤信成,戸田尊次が移封され,全域が徳川氏の直轄領となった。慶長10年代に入ると代官頭が次々と失脚・死亡し,家康が没して駿府・江戸の二元政治も消滅したため,代官頭に付属した手代り代官が三島に陣屋を置いて支配するようになった。

 伊豆は小国ではあるが,江戸の南西に位置し江戸を防御する自然立地をなしており,交通上の要衝にあたった。東海道箱根関を控える三島には代官陣屋が置かれ,江戸~大坂間の海上交通の要所であった下田には16年(元和2)下田奉行が置かれ,江戸出入津のすべての船舶を厳重に検査した。元和偃武(げんなえんぶ)以来,幕府の中央集権化の動きが緊急となり,城下町江戸の建設も加わっての措置であった。この間,36年(寛永13)まで江戸城の修改築が行われるが,多くの西国大名が動員されて東浦の村々から伊豆石を切り出して江戸へ回送した。寛文・延宝期(1661-81)の伊豆国の支配概況は,三島代官伊奈兵右衛門6万7688石余(237ヵ村),代官江川英暉(ひでてる)4809石余(13ヵ村),下田奉行今村伝三郎3207石余(10ヵ村),稲葉美濃守4745石余(不明),井出甚五左衛門300石余(4ヵ村)とされたが,98年(元禄11)の地方(じかた)直し以降,小田原藩大久保氏,掛川藩大田氏,荻野山中藩大久保氏の譜代藩領,多数の旗本の知行所が増大し,三島代官支配所は2万石前後に激減した。1702年の元禄郷帳によれば,君沢郡2万2793石余(69ヵ村),田方郡2万5765石余(71ヵ村),賀茂郡3万0628石余(128ヵ村),那賀郡4603石余(17ヵ村)の総高8万3791石余(285ヵ村)である。

 幕府の支配体制が整備・安定し,鎖国体制が定着し,軍事より経済が優先されるに従い,三島代官は吏僚化し,20年(享保5)下田奉行は廃止され,浦賀に移された。また,59年(宝暦9)三島代官が廃され,韮山に屋敷を構える世襲代官江川氏に伊豆国天領支配はゆだねられ(韮山代官),以降,1868年(明治1)の韮山県までつづくが,支配所は1万~3万石で幕末には減少した。

 近世中期の伊豆は,江戸地回り経済圏に入り,天城炭,伊豆石,海産物等を江戸市場に送った。天城炭は,天城山御林で御用材の原材の下付をうけて製炭,江戸に運搬され,江戸の消費にこたえた。

 寛政年間,ラクスマンの根室来航等,海防問題がもち上がると,江戸湾防備上重大な立地をなす伊豆は再び注目され,1793年(寛政5)老中松平定信が伊豆東海岸を巡視したのをはじめ,1808年(文化5)鉄砲方井上左太夫の大筒試射,39年(天保10)鳥居耀蔵,江川英竜の海防見分などがあり,42年下田奉行が再置された。ペリー来航と日米和親条約の締結は鎖国体制を幕府みずからが打破しただけでなく,海防を緊要とした。下田は即時開港となり,米艦隊7隻が入港,欠乏品供給を名目に事実上の貿易が始まった。米艦が去ると露使プチャーチン搭乗のディアナ号が入港し,日露和親条約が調印された。また,安政の津波で大破したディアナ号の代船を西海岸の戸田(へだ)村で建造した。56年(安政3)米駐日総領事ハリスが下田に着任し,通商条約締結交渉をするなど,59年神奈川開港にともない下田港が閉鎖されるまで,下田は日本外交の中心であった。この間,幕府は応接係林大学頭をはじめ,町・勘定奉行,目付等を派遣し,交渉にあたらせた。他方,韮山代官江川英竜の影響も大きい。英竜は,下田打毀(うちこわし)等の百姓一揆と異国船渡来に触発され,農兵隊の結成,韮山塾による人材養成,反射炉建設,戸田村での君沢船の建造など,進取に富む政策を企画・実施した。その後,幕府の滅亡により,伊豆は68年韮山県,71年足柄県,76年静岡県に編入された。

 伊豆の近世文化は,伊藤仁斎門人の並河誠所(1668-1738)が晩年の享保年間に三島宿に漢学塾を開いたことに始まる。ここに学んだ豪農の子弟の中から地方文人が輩出し,安久村の秋山富南(1723-1808)は1800年(寛政12)《豆州志稿》を編んだ。この流れから,文化・文政期,熊坂村に本居宣長門人の竹村茂雄(1769-1844)が出て多くの百姓国学者を育て幕末維新の平田派国学の隆盛を導き,草莽勤王隊の伊吹隊を生んだ。
伊豆諸島
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「伊豆国」の意味・わかりやすい解説

伊豆国
いずのくに

伊豆半島と伊豆諸島からなる旧国名。豆州(ずしゅう)。東海道十五か国の一つ。国名は、当地に温泉の多いことから「湯出(ゆず)」に由来するという。『旧事本紀(くじほんぎ)』には神功(じんぐう)皇后のとき伊豆国造(くにのみやつこ)が任じられたとあり、『日本書紀』には応神(おうじん)天皇5年伊豆国に軽舟の建造を命じたとある。また『扶桑略記(ふそうりゃっき)』には680年(天武天皇9)駿河(するが)国の賀茂(かも)、田方(たがた)の2郡をもって伊豆国を新設したとある。『延喜式(えんぎしき)』では田方、那賀(なか)、賀茂の3郡、近世には君沢(くんたく)を新設して4郡をもって構成される。国府は最初田方郡田京(たきょう)にあったが、のち三島(みしま)に移ったと考えられている。国分寺、国分尼寺も三島に建立された。古代の流刑(るけい)は724年(神亀1)遠国(おんごく)、近国(きんごく)が定められ、伊豆は遠流(おんる)の国となった。以後、橘逸勢(たちばなのはやなり)(承和(じょうわ)の変)、伴善男(とものよしお)(応天門(おうてんもん)の変)、僧連茂(れんも)(安和(あんな)の変)、源為朝(ためとも)(保元(ほうげん)の乱)、源頼朝(よりとも)(平治(へいじ)の乱)などの重要人物が配流された。平安末の伊豆には伊東氏、狩野(かのう)氏、北条氏などが割拠していた。このなかで源頼朝は1160年(永暦1)から1180年(治承4)の挙兵まで20年間を蛭ヶ島(ひるがしま)(現、伊豆の国市)で過ごした。このため鎌倉から室町期にかけて武士にかかわる著名な事件が相次いだ。修禅寺(しゅぜんじ)における2代将軍頼家の幽閉、暗殺、1457年(長禄1)足利政知(あしかがまさとも)(将軍義政(よしまさ)の弟)の堀越御所の開設(伊豆の国市)、北条早雲(そううん)の堀越御所の討滅と韮山城築城などがそれである。早雲はさらに小田原の大森藤頼(ふじより)を追って、後北条(ごほうじょう)氏の関東支配の基礎を固めた。1590年(天正18)の豊臣(とよとみ)秀吉の小田原征伐に際し、山中城(箱根)、韮山城が重要防御点であったが、ことに北条氏規(うじのり)の韮山城が善戦した。

 北条氏滅亡後、伊豆は徳川家康の所領となり、内藤信成(のぶなり)が韮山に、戸田尊次(とだたかつぐ)が下田に配された。1601年(慶長6)以後伊豆には大名は置かれず、天領と旗本領、大名領(小田原、沼津、掛川藩)の混在地となった。天領は三島代官が支配、のち韮山代官江川氏にかわった。幕末には名代官江川坦庵(たんなん)(太郎左衛門英龍(ひでたつ))が現れ、海防、外交に活躍、伊豆の反射炉、戸田(へだ)でのロシア船修復、洋式船建造などの業績を残した。韮山代官支配天領は駿(すん)・豆(ず)・甲(こう)・武(ぶ)・相(そう)の5か国にわたり、1868年(明治1)そのまま韮山県となった。伊豆は1871年足柄(あしがら)県に編入され、1876年足柄県分割に伴い静岡県に編入された。伊豆諸島は1878年東京府に編入され、現在に至っている。

 伊豆の産業は天城山(あまぎさん)を中心とした林業に関するものが多く、古代の伊豆手船(てぶね)以来の造船、近世の炭、ワサビ、シイタケ、紙などの生産が知られる。また、石の切り出しも盛んで、江戸城、品川台場にも使用された。海産物の豊富なことから漁業も盛んであり、伊豆節(鰹節(かつおぶし))、テングサなどが知られる。鉱山資源は豊富でないが、温泉が多く、中世以来の金山も江戸初期には産出量が多かったことで知られる。寺社では、頼朝の帰依以来武家の信仰の厚い三嶋大社、熱海(あたみ)の伊豆山権現(ごんげん)、修禅寺、国清寺(こくしょうじ)(関東十刹(じっさつ))、北条氏の願成就院(がんじょうじゅいん)などがある。

[仲田正之]

『『静岡県史』(1930・静岡県)』『静岡県編『静岡県史料』全5巻(1932~1941・角川書店)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「伊豆国」の意味・わかりやすい解説

伊豆国
いずのくに

現在の静岡県南部の半島および東京都下の伊豆諸島。東海道の一国。下国。もと伊豆国造が支配。天武 10 (681) 年駿河国から分立。国府,国分寺ともに三島市にあった。律令制下遠流 (おんる) の地とされ,源為朝も伊豆大島に流されたという。『延喜式』には那賀 (なか) ,賀茂,田方の3郡,『和名抄』には郷 21,田 2110町余が記載されている。式内社は 92社。永暦1 (1160) 年源頼朝が当国の蛭ヶ小島 (ひるがこじま) に流されたため,鎌倉幕府草創期の舞台となり,この地方の住人北条氏はその娘政子が頼朝の正室となったため,のちに幕府の執権として政権を握るにいたった。このため伊豆国は鎌倉時代を通じて北条氏家督の地として得宗領 (とくそうりょう) となった。室町時代には上杉氏,畠山氏が支配し,戦国時代には後北条氏が領有したが,豊臣秀吉に滅ぼされた。秀吉は韮山に内藤信成を,下田に戸田忠次を封じた。江戸時代には幕府領として天領および幕臣の領地となる。代官としては韮山の江川氏が著名で,江川英龍 (→江川太郎左衛門 ) が韮山に構築した反射炉は現存しており有名である。下田 (→下田市 ) は上方と江戸との廻船の重要な寄港地であったため,元和2 (1616) 年に下田奉行の設置をみたが2度廃止となり,安政1 (1854) 年に2度目の復活をみた。アメリカの初代領事 T.ハリスは幕府との下田条約をここで結んだ。明治2 (69) 年には韮山県となり,同4年の廃藩置県によって足柄県,さらに 1876年に静岡県に編入。伊豆諸島は 78年に東京府に編入された。

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藩名・旧国名がわかる事典 「伊豆国」の解説

いずのくに【伊豆国】

現在の静岡県伊豆半島伊豆諸島を占めた旧国名。律令(りつりょう)制下で東海道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は下国(げこく)で、京からの距離では中国(ちゅうごく)とされた。国府と国分寺はともに現在の三島市におかれていた。古くから遠流(おんる)の地となり、平安時代には橘逸勢(たちばなのはやなり)、伴善男(とものよしお)源頼朝(みなもとのよりとも)らが配流された。鎌倉時代には北条(ほうじょう)氏南北朝時代から室町時代には上杉氏らが守護となり、戦国時代には後北条氏が支配した。のち徳川家康(とくがわいえやす)の所領となる。江戸時代は幕府直轄地となり、幕末には江川太郎左衛門(えがわたろうざえもん)代官として活躍、大砲の製造や反射炉の建設などで業績をあげた。開国後は、下田奉行が外交関係の処理にあたった。1868年(明治1)に韮山(にらやま)県となったが、1871年(明治4)の廃藩置県ののち足柄(あしがら)県に編入された。その後、1876年(明治9)に足柄県の旧伊豆国地域が静岡県に編入され、伊豆諸島は1878年(明治11)に東京府(のち東京都)へ編入された。◇豆州(ずしゅう)ともいう。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「伊豆国」の解説

伊豆国
いずのくに

東海道の国。現在の静岡県伊豆半島と東京都下の伊豆諸島。「延喜式」の等級は下国。「和名抄」では田方・賀茂・那賀の3郡からなる。「扶桑略記」に680年(天武9)駿河国からの分置を伝える。国府・国分寺は田方郡(現,三島市)にあったと考えられる。一宮は三島大社(現,三島市)。「和名抄」所載田数は2110町余。「延喜式」に調として綾・羅・帛や堅魚(かつお)を,中男作物として木綿・胡麻油・堅魚煎汁(いろり)を定める。724年(神亀元)遠流(おんる)の国に指定された。鎌倉時代には北条氏得宗家が守護を勤め,室町時代には幕府と鎌倉公方の対立から足利政知が派遣されて韮山(にらやま)にとどまり,堀越公方とよばれた。1491年(延徳3)北条早雲が堀越公方を倒して,戦国大名小田原北条氏の支配下となる。江戸時代はほとんどが幕領。1868年(明治元)韮山県となる。71年足柄県,76年静岡県に属した。78年伊豆七島を東京府に編入。

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百科事典マイペディア 「伊豆国」の意味・わかりやすい解説

伊豆国【いずのくに】

旧国名。豆州とも。東海道に属し,現在は静岡県伊豆半島,東京都伊豆諸島。《延喜式》に下国,3郡。724年に遠流(おんる)の地とされた。流人源頼朝はここで挙兵。小田原北条氏の支配を経て,江戸時代は幕府領となり,三島に代官所を置く。
→関連項目静岡[県]中部地方

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