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伊豆国 いずのくに

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

伊豆国
いずのくに

現在の静岡県南部の半島および東京都下の伊豆諸島東海道の一国。下国。もと伊豆国造が支配。天武 10 (681) 年駿河国から分立。国府,国分寺ともに三島市にあった。律令制下遠流 (おんる) の地とされ,源為朝も伊豆大島に流されたという。『延喜式』には那賀 (なか) ,賀茂,田方の3郡,『和名抄』には郷 21,田 2110町余が記載されている。式内社は 92社。永暦1 (1160) 年源頼朝が当国の蛭ヶ小島 (ひるがこじま) に流されたため,鎌倉幕府草創期の舞台となり,この地方の住人北条氏はその娘政子が頼朝の正室となったため,のちに幕府の執権として政権を握るにいたった。このため伊豆国は鎌倉時代を通じて北条氏家督の地として得宗領 (とくそうりょう) となった。室町時代には上杉氏,畠山氏が支配し,戦国時代には後北条氏が領有したが,豊臣秀吉に滅ぼされた。秀吉は韮山に内藤信成を,下田に戸田忠次を封じた。江戸時代には幕府領として天領および幕臣の領地となる。代官としては韮山の江川氏が著名で,江川英龍 (→江川太郎左衛門 ) が韮山に構築した反射炉は現存しており有名である。下田 (→下田市 ) は上方と江戸との廻船の重要な寄港地であったため,元和2 (1616) 年に下田奉行の設置をみたが2度廃止となり,安政1 (1854) 年に2度目の復活をみた。アメリカの初代領事 T.ハリスは幕府との下田条約をここで結んだ。明治2 (69) 年には韮山県となり,同4年の廃藩置県によって足柄県,さらに 1876年に静岡県に編入。伊豆諸島は 78年に東京府に編入された。

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百科事典マイペディアの解説

伊豆国【いずのくに】

旧国名。豆州とも。東海道に属し,現在は静岡県伊豆半島,東京都伊豆諸島。《延喜式》に下国,3郡。724年に遠流(おんる)の地とされた。流人源頼朝はここで挙兵。小田原北条氏の支配を経て,江戸時代は幕府領となり,三島に代官所を置く。
→関連項目静岡[県]中部地方

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藩名・旧国名がわかる事典の解説

いずのくに【伊豆国】

現在の静岡県伊豆半島伊豆諸島を占めた旧国名。律令(りつりょう)制下で東海道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は下国(げこく)で、京からの距離では中国(ちゅうごく)とされた。国府と国分寺はともに現在の三島市におかれていた。古くから遠流(おんる)の地となり、平安時代には橘逸勢(たちばなのはやなり)、伴善男(とものよしお)源頼朝(みなもとのよりとも)らが配流された。鎌倉時代には北条(ほうじょう)氏南北朝時代から室町時代には上杉氏らが守護となり、戦国時代には後北条氏が支配した。のち徳川家康(とくがわいえやす)の所領となる。江戸時代は幕府直轄地となり、幕末には江川太郎左衛門(えがわたろうざえもん)代官として活躍、大砲の製造や反射炉の建設などで業績をあげた。開国後は、下田奉行が外交関係の処理にあたった。1868年(明治1)に韮山(にらやま)県となったが、1871年(明治4)の廃藩置県ののち足柄(あしがら)県に編入された。その後、1876年(明治9)に足柄県の旧伊豆国地域が静岡県に編入され、伊豆諸島は1878年(明治11)に東京府(のち東京都)へ編入された。◇豆州(ずしゅう)ともいう。

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世界大百科事典 第2版の解説

いずのくに【伊豆国】

旧国名。豆州。静岡県東部の伊豆半島および現在は東京都に属する伊豆諸島を含む地域。
【古代】
 東海道に属する下国(《延喜式》)。田方,那賀(仲とも),賀茂の3郡からなり,国府は田方郡に置かれ,三島市三嶋大社付近にあったといわれている。《国造本紀》の伊豆国造条には,〈神功皇后御代,物部連(むらじ)の祖,天桙(あめのぬぼこ)命8世の孫,若建命を国造に定め賜う。難波朝(孝徳)の御世,駿河国に隷(つ)く。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

伊豆国
いずのくに

伊豆半島と伊豆諸島からなる旧国名。豆州(ずしゅう)。東海道十五か国の一つ。国名は、当地に温泉の多いことから「湯出(ゆず)」に由来するという。『旧事本紀(くじほんぎ)』には神功(じんぐう)皇后のとき伊豆国造(くにのみやつこ)が任じられたとあり、『日本書紀』には応神(おうじん)天皇5年伊豆国に軽舟の建造を命じたとある。また『扶桑略記(ふそうりゃっき)』には680年(天武天皇9)駿河(するが)国の賀茂(かも)、田方(たがた)の2郡をもって伊豆国を新設したとある。『延喜式(えんぎしき)』では田方、那賀(なか)、賀茂の3郡、近世には君沢(くんたく)を新設して4郡をもって構成される。国府は最初田方郡田京(たきょう)にあったが、のち三島(みしま)に移ったと考えられている。国分寺、国分尼寺も三島に建立された。古代の流刑(るけい)は724年(神亀1)遠国(おんごく)、近国(きんごく)が定められ、伊豆は遠流(おんる)の国となった。以後、橘逸勢(たちばなのはやなり)(承和(じょうわ)の変)、伴善男(とものよしお)(応天門(おうてんもん)の変)、僧連茂(れんも)(安和(あんな)の変)、源為朝(ためとも)(保元(ほうげん)の乱)、源頼朝(よりとも)(平治(へいじ)の乱)などの重要人物が配流された。平安末の伊豆には伊東氏、狩野(かのう)氏、北条氏などが割拠していた。このなかで源頼朝は1160年(永暦1)から1180年(治承4)の挙兵まで20年間を蛭ヶ島(ひるがしま)(現、伊豆の国市)で過ごした。このため鎌倉から室町期にかけて武士にかかわる著名な事件が相次いだ。修禅寺(しゅぜんじ)における2代将軍頼家の幽閉、暗殺、1457年(長禄1)足利政知(あしかがまさとも)(将軍義政(よしまさ)の弟)の堀越御所の開設(伊豆の国市)、北条早雲(そううん)の堀越御所の討滅と韮山城築城などがそれである。早雲はさらに小田原の大森藤頼(ふじより)を追って、後北条(ごほうじょう)氏の関東支配の基礎を固めた。1590年(天正18)の豊臣(とよとみ)秀吉の小田原征伐に際し、山中城(箱根)、韮山城が重要防御点であったが、ことに北条氏規(うじのり)の韮山城が善戦した。
 北条氏滅亡後、伊豆は徳川家康の所領となり、内藤信成(のぶなり)が韮山に、戸田尊次(とだたかつぐ)が下田に配された。1601年(慶長6)以後伊豆には大名は置かれず、天領と旗本領、大名領(小田原、沼津、掛川藩)の混在地となった。天領は三島代官が支配、のち韮山代官江川氏にかわった。幕末には名代官江川坦庵(たんなん)(太郎左衛門英龍(ひでたつ))が現れ、海防、外交に活躍、伊豆の反射炉、戸田(へだ)でのロシア船修復、洋式船建造などの業績を残した。韮山代官支配天領は駿(すん)・豆(ず)・甲(こう)・武(ぶ)・相(そう)の5か国にわたり、1868年(明治1)そのまま韮山県となった。伊豆は1871年足柄(あしがら)県に編入され、1876年足柄県分割に伴い静岡県に編入された。伊豆諸島は1878年東京府に編入され、現在に至っている。
 伊豆の産業は天城山(あまぎさん)を中心とした林業に関するものが多く、古代の伊豆手船(てぶね)以来の造船、近世の炭、ワサビ、シイタケ、紙などの生産が知られる。また、石の切り出しも盛んで、江戸城、品川台場にも使用された。海産物の豊富なことから漁業も盛んであり、伊豆節(鰹節(かつおぶし))、テングサなどが知られる。鉱山資源は豊富でないが、温泉が多く、中世以来の金山も江戸初期には産出量が多かったことで知られる。寺社では、頼朝の帰依以来武家の信仰の厚い三嶋大社、熱海(あたみ)の伊豆山権現(ごんげん)、修禅寺、国清寺(こくしょうじ)(関東十刹(じっさつ))、北条氏の願成就院(がんじょうじゅいん)などがある。[仲田正之]
『『静岡県史』(1930・静岡県) ▽静岡県編『静岡県史料』全5巻(1932~1941・角川書店)』

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