郡里村(読み)こおざとむら

日本歴史地名大系 「郡里村」の解説

郡里村
こおざとむら

[現在地名]美馬町 小長谷おばせ小長谷端おばせばたとどろき中道北なかみちきた中道南なかみちみなみ境石元さかいいしもと鵜飼口うかいぐち高畑たかばたけ川縁かわべり東宗重ひがしむねしげ宗重むねしげ玉振前たまふりまえ助松すけまつ七反地しちたんじ東岸ひがしきしした中須なかす高野たかのえき蛭子えびす宮東みやひがし宮西みやにし宮南みやみなみ柿木かきのき養泉ようせん銀杏木いちようぎ願勝寺がんしようじてらした妙見みようけん喜来市きらいいち大宮西おおみやにし天神てんじん天神北てんじんきた谷ヨリ西たによりにしつち久保くぼ北土きたつち久保くぼおか辰角たつかく薬師やくし荒神こうじん天神東てんじんひがし橋本はしのもと・ナツゴ・明神原みようじんばら南原みなみばら谷頭たにがしら・ノリコヘ・中黒なかぐろ丸山まるやま・チケジ・笠仏かさぼとけ深切ふかぎり坊僧ぼうそう芋谷いもたにうめ久保くぼいけうら西段にしだん東段ひがしだん井出縁いでべり喜入道きにゆうどう鍵掛かんかけ滝宮たきのみや鍋倉なべくら大久保おおくぼ大窪おおくぼ切久保きりくぼ正部しようぶ惣後そうご立見山たつみやま入倉いりくら清田せいだ丈寄じようより

現町域の東部、北流する吉野川の北岸に位置する。東は吉野川に注ぐ野村谷のむらだに川をおおよその境に岩倉いわくら村・岩倉山(現脇町)、北は讃岐山脈竜王りゆうおう(一〇五九・九メートル)から東方に延びる尾根を境に讃岐国香川郡安原やすはら(現香川県塩江町)のうちの安原上西やすはらかみにし村、南は吉野川を隔てて貞光さだみつ村・太田おおた(現貞光町)、西は吉野川支流鍋倉谷なべくらだに川をおおよその境に重清しげきよ村。村の北部、竜王山の南斜面、野村谷川の上流、源流部に展開する郡里山こおざとやま地区は、近世の郷村帳類では郡里村とは別筆で郡里山として高付されることもあり、庄屋も別にたてられていて、実質的には独立した一村であった(郡里山を山分、本村を里分ともよんでいる)。また東部の小長谷(尾和瀬)を枝村として扱う場合もあった。吉野川段丘上には徳島県下で最大規模の横穴式石室を有する太鼓塚たいこづか古墳を含む段の塚穴だんのつかあな古墳群や白鳳期の創建と考えられる郡里廃寺などがあり、地名は当地が古代の美馬郡衙の所在地であったことに由来するといわれる。一方、郡里山地区は、同地区字正部の正部神社の伝承由来から考えると、鎌倉時代中期頃から開拓され始めたと考えられる。なお地内には行基開創との伝承がある願勝がんしよう(現真言宗御室派)や一三世紀半ばに千葉常重が再興したと伝える安楽あんらく(現浄土真宗本願寺派)などの古刹があり、郡里山地区字池ノ浦(「阿波志」では「在郡里滝宮上鳥岡」とある)には源義利(上野新田氏の後裔とされる)の居館という戦国期の山城、郡里城跡がある。

嘉慶元年(一三八七)一一月二六日、細川頼有は子息の松ほうし(頼長)に「こうさと」の一分地頭職(「よこたのひこ六郎」跡)などを含む阿波・伊予・讃岐三ヵ国で合せて一八ヵ所の所領を譲っている(「細川頼有譲状」細川家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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