日本大百科全書(ニッポニカ) 「鄭迵」の意味・わかりやすい解説
鄭迵
ていどう
(?―1611)
琉球(りゅうきゅう)王国の政治家。鄭迵は唐名(とうめい)。琉球風の名のりは謝名親方(じゃなうぇーかた)、字(あざな)は利山(りざん)。琉球に帰化した中国人の居留区久米村の出で、官生(かんしょう)(留学生)や使節などの形でしばしば中国に赴いた。1606年(慶長11)三司官となり、薩摩(さつま)が奄美(あまみ)大島出兵計画をたてたり、徳川家康より琉球出兵の許可を得たりするなど戦雲急を告げる時局下で、対薩摩・幕府に対する強硬派のリーダーとなった。09年、島津侵入事件で王国が敗れると、国王とともに鹿児島に連行された。幽囚中、琉球救援を訴えた中国あての密書を長崎経由で送るなど強硬派の姿勢を崩さなかった。慶長(けいちょう)16年9月19日、薩摩支配に従う趣旨の起請文(きしょうもん)にただ1人署名を拒否、薩摩の手で斬首(ざんしゅ)に処せられた。
[高良倉吉]