中国において隋代以来中央に置かれた教育行政機関。国子とは《周礼(しゆらい)》に見える語で,公卿大夫の子弟を意味する。晋代に初めてその教育機関として国子学が設置され,隋代には国子監と改められた。唐の国子監は教育行政機関であって,直接教育を担当したのは,その下に置かれた国子学,太学等の学校であった。宋・元はあらましこの制度を受けついだが,元では別に蒙古,回回等の国子監,国子学も設けられた。明に至って国子監は国子学を吸収し,教育行政機関と最高学府の二つの性格を兼備することとなった。また南京,北京それぞれに国子監が置かれ,古来の国子学と異なり,庶民の入学も認められた。国子監は礼部に属し,その長は古来の制を受けて祭酒と呼ばれ,司業,博士等の職員が置かれた。清は明制をついだが,南京国子監を廃したほか,礼部から独立させ,祭酒の上に特任の管理監事大臣を置いて事実上の長官とした。教育機関としての国子監(寺)は,もともと官吏の養成を目的としたが,宋代以降科挙の隆盛とともにその地位は下落し,清末には新教育機関たる京師大学堂の設置とともにやがて廃止され(1903),教育行政機関としては学部が設けられた。
執筆者:岩見 宏
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旧中国の中央政府で最高学府行政をつかさどった役所。漢代には都に太学(たいがく)があり、六朝(りくちょう)以後は貴族子弟を教育するために国子学を置いたが、隋(ずい)代に初めて国子監を設けた。唐代は国子監に長官の祭酒(さいしゅ)、次官の司業(しぎょう)以下の官があり、太学、国子学などを管轄した。宋(そう)代には国子監がつかさどるのは太学を主とし、その教官を、ときに国子直講(ちょっこう)、ときに太学博士(はかせ)と称した。元代には国子監の下に国子学があり、明(みん)代にこれを国学と改めた。清(しん)代には国子監は国学、官学、算学などを管轄し、ここに学ぶ者に貢生(こうせい)、監生(かんせい)、学生などの別があり、学校の試験を受けて官途につく道が開けていたが、科挙によるほうが栄達が早かった。学校では授業を行うことはほとんどなく、孔子の祭典や、まれに形式的な講義を行うにとどまった。
[宮崎市定]
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…しかし実際は科挙という試験の通過が士大夫への道であり,まさに月々の成績は統治官僚を志す者として軽視できぬものとなっていた。学校制度は唐の時代に中央教育行政官庁である国子監の下で整備され,貴族の子弟を入学させる国子学をはじめ,階層に応じ大学,四門学,律学,書学,算学が設けられた。儒教は漢代に中国の国教となり,以後清朝にいたるまでその地位を占め,1919年の五・四運動において初めて徹底的に批判された。…
…馮道は後唐以後も11人の皇帝に仕えながら,21年後の953年に完成した。印刷・出版は国子監(国立大学)で行い,ここで彼は,ほかにもいくつかの大出版を行った。
[宋版]
宋代は商工業,貿易の発展を背景として,文化がおおいに興った時代である。…
※「国子監」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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