野尻郷(読み)のじりごう

日本歴史地名大系 「野尻郷」の解説

野尻郷
のじりごう

鹿児島藩外城の一で、現在の野尻町域と高崎たかざき町北部域にまたがり、岩瀬いわせ川北岸と、同川と大淀川との合流点南西方を占める。近世後期の高位付では下位、鹿児島からの道程は万治年間(一六五八―六一)以降遠方に位置づけられた(「薩摩藩万留」鹿児島県立図書館蔵)鹿児島城下からの距離は浜之市はまのいち筋で二〇里半、うち海路七里、真幸まさき筋で二三里半、うち海路五里(「薩藩政要録」など)

天正八年(一五八〇)の肥後合戦陣立日記(旧記雑録)には、諸外城諸地頭付衆中の一人として野尻の市来美作守(家守)の名がみえる。この時期すでに野尻は外城として立てられていたものか。同一一年三月二四日、野尻に付けられていた糸原いとばる(現宮崎市)は、倉岡くらおか(現同上)諸辺の役所が不自由であるので倉岡へ付けることとし、その代り井蔵いくら八町名(現新富町)を野尻へ付けることが市来家守に伝えられた。八月二日には伊集院忠棟・本田親兼から宮崎城の上井覚兼宛の書状が野尻を経由して届けられた。九月三〇日には野尻地頭(市来家守)が覚兼のもとを訪れている。一〇月七日の肥後堅志田かたしだ(現熊本県中央町)攻めに際しては、野尻衆は覚兼の手勢として加わった。同一二年五月一一日、飯野いいのから「野尻之町」へ着いた覚兼を市来家守は酒を持って訪れ、野尻衆中も宿へよばれて酒宴が開かれている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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