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伊集院忠棟 いじゅういん ただむね

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

伊集院忠棟 いじゅういん-ただむね

?-1599 戦国-織豊時代の武将。
島津忠時の子忠経(ただつね)の後裔(こうえい)。薩摩(さつま)(鹿児島県)の島津義久の筆頭家老。天正(てんしょう)15年義久が豊臣秀吉軍に敗れたとき人質となる。以後石田三成(みつなり)に親近し,文禄(ぶんろく)4年日向(ひゅうが)庄内(宮崎県都城)に8万石をあたえられ,主家と同格の処遇をうける。慶長4年3月9日島津忠恒(家久)に京都伏見邸で殺害され,子の忠真(ただざね)は庄内の乱をおこした。通称は源太,右衛門大夫

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朝日日本歴史人物事典の解説

伊集院忠棟

没年:慶長4.3.9(1599.4.4)
生年:生年不詳
戦国・安土桃山時代の武将,島津氏の宿老。忠倉の子。源太,右衛門大夫。薩摩(鹿児島県)伊集院を本拠とする国人の出で,島津義久に仕え中老となり,天正8(1580)年には大隅,日向各地の地頭を兼ね,領国拡大戦争に関与した。織田信長の死後は八代に侵出して肥後併合の軍事に従い,同13年豊臣秀吉の平和令を奉ずる千利休細川幽斎連署の添状は忠棟に宛てられている。同15年4月日向根白坂で豊臣軍に敗れ,人質として捕らえられ出家。のち石田三成に接近し,文禄4(1595)年都城8万石を領した。秀吉没後,三成の失脚に伴い主家島津家久の伏見邸で誅殺された。和歌をよくし,幽斎と交流があった。

(今谷明)

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世界大百科事典 第2版の解説

いじゅういんただむね【伊集院忠棟】

?‐1599(慶長4)
戦国・安土桃山時代の武将。大和守忠朗入道孤舟の孫,同忠倉の子。初名忠金,通称源太,右衛門大夫,道号幸侃,伊集院氏(正統6代)頼久の四男家の家統である。父祖以来伊作島津氏に歴事。祖父忠朗は伊作島津家無二の重臣であった。初め島津義久の使衆,1566年(永禄9)以後国老,島津忠恒(家久)に手刃されるまで島津氏臣中の筆頭の地位にあった。95年(文禄4)庄内8万石の大封を得てから〈威勢イヨイヨ強ク野心ノ色オノツカラ顕ル〉(《本藩人物誌》)といわれるが,“野心”の具体的な証跡は今日知られていない。

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世界大百科事典内の伊集院忠棟の言及

【大隅国】より

…その後島津氏は日向,さらにすすんで肥後,肥前,豊後,筑後など北九州まで兵を進めたが,87年の豊臣秀吉の九州入り,島津攻めにより降伏。大隅の地は大半が島津義弘に安堵されたが,肝付一郡は伊集院忠棟(幸侃)に与えられた。94年(文禄3)には太閤検地が実施され,大隅国は17万557石余と算出され,うち加治木1万石は太閤蔵入分,曾於郡清水の内曾小川村ほか6328石余が石田三成分,肝付郡内岩広村ほか3005石余は細川幽斎分とされ,他は島津義久・義弘の蔵入分,それに伊集院忠棟(末吉ほか),島津以久(種子島,恵良部島,屋久島)知行分となった。…

【山口直友】より

…明智光秀,ついで豊臣秀吉に国を追われ,1585年(天正13)徳川家康に仕える。99年(慶長4)伊集院忠棟(幸侃)の事件のとき家康の使として薩摩に赴く(以後,晩年まで島津氏と幕府の仲介を務めた)。1603年3000石に加増され丹波の国奉行(1609年まで)。…

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