伊集院忠棟(読み)いじゅういんただむね

改訂新版 世界大百科事典 「伊集院忠棟」の意味・わかりやすい解説

伊集院忠棟 (いじゅういんただむね)
生没年:?-1599(慶長4)

戦国安土桃山時代武将。大和守忠朗入道孤舟の孫,同忠倉の子。初名忠金,通称源太,右衛門大夫,道号幸侃,伊集院氏(正統6代)頼久の四男家の家統である。父祖以来伊作島津氏に歴事。祖父忠朗は伊作島津家無二の重臣であった。初め島津義久の使衆,1566年(永禄9)以後国老,島津忠恒(家久)に手刃されるまで島津氏臣中の筆頭地位にあった。95年(文禄4)庄内8万石の大封を得てから〈威勢イヨイヨ強ク野心ノ色オノツカラ顕ル〉(《本藩人物誌》)といわれるが,“野心”の具体的な証跡は今日知られていない。嫡男忠真は父の横死を聞き封地庄内で島津氏に反した。
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朝日日本歴史人物事典 「伊集院忠棟」の解説

伊集院忠棟

没年:慶長4.3.9(1599.4.4)
生年:生年不詳
戦国・安土桃山時代の武将,島津氏の宿老。忠倉の子。源太,右衛門大夫。薩摩(鹿児島県)伊集院を本拠とする国人の出で,島津義久に仕え中老となり,天正8(1580)年には大隅,日向各地の地頭を兼ね,領国拡大戦争に関与した。織田信長死後は八代に侵出して肥後併合の軍事に従い,同13年豊臣秀吉の平和令を奉ずる千利休・細川幽斎連署の添状は忠棟に宛てられている。同15年4月日向根白坂で豊臣軍に敗れ,人質として捕らえられ出家。のち石田三成に接近し,文禄4(1595)年都城8万石を領した。秀吉没後,三成の失脚に伴い主家島津家久の伏見邸で誅殺された。和歌をよくし,幽斎と交流があった。

(今谷明)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「伊集院忠棟」の解説

伊集院忠棟 いじゅういん-ただむね

?-1599 戦国-織豊時代の武将。
島津忠時の子忠経(ただつね)の後裔(こうえい)。薩摩(さつま)(鹿児島県)の島津義久の筆頭家老。天正(てんしょう)15年義久が豊臣秀吉軍に敗れたとき人質となる。以後石田三成(みつなり)に親近し,文禄(ぶんろく)4年日向(ひゅうが)庄内(宮崎県都城)に8万石をあたえられ,主家と同格の処遇をうける。慶長4年3月9日島津忠恒(家久)に京都伏見邸で殺害され,子の忠真(ただざね)は庄内の乱をおこした。通称は源太,右衛門大夫。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の伊集院忠棟の言及

【大隅国】より

…その後島津氏は日向,さらにすすんで肥後,肥前,豊後,筑後など北九州まで兵を進めたが,87年の豊臣秀吉の九州入り,島津攻めにより降伏。大隅の地は大半が島津義弘に安堵されたが,肝付一郡は伊集院忠棟(幸侃)に与えられた。94年(文禄3)には太閤検地が実施され,大隅国は17万557石余と算出され,うち加治木1万石は太閤蔵入分,曾於郡清水の内曾小川村ほか6328石余が石田三成分,肝付郡内岩広村ほか3005石余は細川幽斎分とされ,他は島津義久・義弘の蔵入分,それに伊集院忠棟(末吉ほか),島津以久(種子島,恵良部島,屋久島)知行分となった。…

【山口直友】より

…明智光秀,ついで豊臣秀吉に国を追われ,1585年(天正13)徳川家康に仕える。99年(慶長4)伊集院忠棟(幸侃)の事件のとき家康の使として薩摩に赴く(以後,晩年まで島津氏と幕府の仲介を務めた)。1603年3000石に加増され丹波の国奉行(1609年まで)。…

※「伊集院忠棟」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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