朝日日本歴史人物事典 「野村望東」の解説
野村望東
生年:文化3.9.6(1806.10.17)
江戸末期の歌人,勤王家。福岡藩士浦野重右衛門とみちの3女。名はもと。24歳で同藩藩士野村貞貫と再婚。27歳のとき夫と共に歌人大隈言道に入門。夫と相愛の暮らしのなかにも「かりがねの帰りし空をながめつゝ立てるそほづ(かかし)は我身なりけり」と,主体的に生きられない立場の女の苦しみや焦燥を詠んだものが多くみられる。夫の死により54歳で剃髪して望東尼と称するが,その打撃は大きく,自身を無用化し「刈田のそほづ」に投影した歌がある。56歳で上京,尊攘運動を目撃し,帰国後平野国臣をはじめ藩内の尊攘派と交流を深め,さらに高杉晋作ら諸藩の尊攘派をかくまうなど,尊攘運動に積極的にかかわり,古典に依拠しながら,女の身でのこうした行動の正当性を主張した。慶応1(1865)年,藩の尊攘派弾圧により姫島流罪となるが,翌年高杉の部下によって救出されて長州に移り,明治維新直前同地で客死。<著作>佐佐木信綱編『野村望東尼全集』<参考文献>中嶌邦「幕末の女性―野村望東尼」(『歴史教育』13巻8号),関民子『江戸後期の女性たち』
(関民子)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報