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平野国臣 ひらの くにおみ

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美術人名辞典の解説

平野国臣

幕末の勤王家。福岡藩士。筑前生。初め名は種徳、のち国臣、号は月迺舎・友月庵等。通称は源蔵・次郎。福岡の獄にて下獄後但馬生野に義旗を挙げ捕えられて、京都六角の獄にて、元治元年(1864)歿、37才。贈正四位。

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デジタル大辞泉の解説

ひらの‐くにおみ【平野国臣】

[1828~1864]幕末の尊攘派志士。福岡藩士。通称、次郎。脱藩して京都に上り、西国の尊攘派を結集したが、寺田屋事件で失敗。のち、生野の変を起こしたが捕らえられ、獄中で斬られた。

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百科事典マイペディアの解説

平野国臣【ひらのくにおみ】

幕末尊攘派の志士。筑前(ちくぜん)福岡藩士。通称次郎。1858年脱藩して上洛。尊攘派の京都清水寺僧月照(げっしょう)の薩摩(さつま)亡命に助力。1862年寺田屋事件に関連して帰国を命じられ下獄した。
→関連項目清川八郎野村望東尼

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

平野国臣 ひらの-くにおみ

1828-1864 幕末の武士。
文政11年3月29日生まれ。筑前(ちくぜん)福岡藩士。安政5年脱藩,京都で尊攘(そんじょう)運動にかかわる。文久3年(1863)八月十八日の政変で京都を追われ,沢宣嘉(のぶよし)を擁して但馬(たじま)(兵庫県)生野(いくの)で討幕の挙兵(生野の変)をするが,捕らえられ,元治(げんじ)元年7月20日処刑された。37歳。通称は次郎。号は月廼舎(つきのや),独醒軒。著作に「回天管見策」「尽忠録」など。
【格言など】年老いし親の嘆きはいかならん身は世のためと思ひかへても(辞世)

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朝日日本歴史人物事典の解説

平野国臣

没年:元治1.7.20(1864.8.21)
生年:文政11.3.29(1828.5.12)
幕末の筑前福岡藩士,尊攘派志士。通称次郎。同藩足軽平野吉郎右衛門の次男。江戸屋敷普請方,長崎屋敷諸用聞次定役を勤める。かねて国学,和歌,雅楽を学んでいたが,会沢正志斎の『新論』に感化を受け,また有職故実を修めたこともあって,烏帽子直垂の王朝風俗を愛好し,王政復古を志すようになる。安政5(1858)年脱藩上京するが,折からの大獄の嵐を筑後に避け,月照を保護して入薩。脱藩の罪で追われ,肥後,薩摩などに潜行。万延1(1860)年,桜田門外の変の報を下関の商人白石正一郎宅で聞き,「所から名もおもしろし桜田の火花にまじる春の淡雪」と詠んでいる。文久2(1862)年島津久光の上洛を機に,薩摩藩士および真木和泉,小河一敏ら九州有志と挙兵を企てたが,寺田屋の変で挫折。参府の途にあった藩主黒田長溥を諫止し投獄された。獄中では「小撚文字(こよりを小さく切って張り合わせたもの)」で『神武必勝論』などを著す。翌年赦免されて上京,8月16日学習院出仕となる。翌日天誅組説得の命を受けて大和五条に赴くが失敗,8月18日の政変により但馬に走る。七卿のひとり沢宣嘉を擁して生野代官所を襲撃したがほどなく潰敗し,捕らわれて京都六角の獄に収監。元治1(1864)年禁門の変の騒擾の際,未決のまま斬首された。辞世は「みよや人嵐の庭のもみぢ葉はいづれ一葉も散らずやはある」。<著作>『尊攘英断録』『培覆論』『回天三策』<参考文献>『平野国臣伝記及遺稿』

(三井美恵子)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

ひらのくにおみ【平野国臣】

1828‐64(文政11‐元治1)
幕末の志士。福岡藩下級武士。通称次郎。1858年(安政5)脱藩上京以後,尊王攘夷運動に奔走,京都~九州間を往来した。63年(文久3)大和行幸を名目とする討幕計画に関係,天誅組の鎮撫説得にあたる。8月18日の政変後七卿の一人沢宣嘉を奉じ但馬生野(いくの)に挙兵したが敗れ(生野の変),京都六角獄に幽閉され,翌年禁門の変に際し幕府大目付の判断で未決のまま処刑された。【山口 宗之】

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大辞林 第三版の解説

ひらのくにおみ【平野国臣】

1828~1864) 幕末の志士。通称、次郎。福岡藩士。西国の尊攘派を結集したが寺田屋騒動で失敗。七卿落ちの一人沢宣嘉さわのぶよしを擁して討幕のために但馬生野に挙兵したが、幕府軍・諸藩兵に攻められて敗れ、京都で処刑された。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

平野国臣
ひらのくにおみ

[生]文政11(1828).3.29. 筑前
[没]元治1(1864).7.22. 京都
幕末の志士,勤王家。実名は種言,種徳。家号は月迺舎,友月庵,柏舎など。通称は次郎。 28歳のとき上京。在京薩摩藩士らと往来し,尊王攘夷論を唱えた。安政5 (1858) 年脱藩して,西郷隆盛,月照らと交わり,天草島に潜居して文久1 (61) 年天下の時務策『尊攘莢断録』を著わした。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

平野国臣
ひらのくにおみ
(1828―1864)

幕末の尊攘派(そんじょうは)志士。福岡藩下級武士出身、通称次郎。1858年(安政5)脱藩上京し、安政(あんせい)の大獄の追及を受けた僧月照(げっしょう)を鹿児島へ逃れさせた。1862年(文久2)薩摩(さつま)藩尊攘派、浪士たちと挙兵、攘夷(じょうい)断行を企てたが失敗、福岡藩で投獄された。翌年許され上京し大和行幸(やまとぎょうこう)による討幕計画に参加、また中山忠光(なかやまただみつ)らによる天誅組(てんちゅうぐみ)挙兵に対しては鎮撫(ちんぶ)説得にあたったが失敗。八月十八日の政変(1863)後、七卿落(しちきょうおち)の一人沢宣嘉(さわのぶよし)を奉じ、10月但馬(たじま)生野(いくの)で倒幕の挙兵をしたが、豊岡(とよおか)藩兵に捕らえられ(生野の変)、京都六角の獄に幽閉。1864年(元治1)禁門の変(蛤御門(はまぐりごもん)の変)の騒擾(そうじょう)に際し、幕府大目付らの判断で未決のまま処刑される。彼は国学、和歌、有職故実(ゆうそくこじつ)を学び、王朝の風を慕って総髪とし、太刀(たち)を帯びた。[山口宗之]
『平野国臣顕彰会編『平野国臣伝記及遺稿』(1916・博文社書店)』

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