野田原村(読み)のたはらむら

日本歴史地名大系 「野田原村」の解説

野田原村
のたはらむら

[現在地名]桃山町野田原

貴志きし川の支流たすき峠を源流として西流する野田原川に沿った東西に細長い村で、北は黒川くろかわ善田ぜんだ脇谷わきたにの各村、南は北野きたの花野原はなのはらみや蓑垣内みのがいと(現海草郡美里町)の各村に接する。「続風土記」は「村居三に分れ各小名あり」として光長みつなが中邑なかむら神縄懸かんじようかけ(現神縄掛)を記す。いずれも野田原川沿いである。「外に村居四つあり、隠田垣内・背向・鳥淵・所垣内といふ、隠田・光長・背向を都て上村といふ、鳥淵・所垣内・神縄懸を下村といふ」ともある。野田原の地名は保延元年(一一三五)一二月二九日付の荒川庄田畠桑并在家等検注状案(続宝簡集)に「野太原七段百八十歩已見作」とみえ、嘉応元年(一一六九)一〇月一八日付の阿保行宗田地荒野譲状(又続宝簡集)に「在金剛峯寺御領荒河御庄内野田原村字南(垣カ)内」とあり、高野山領荒川あらかわ庄に含まれた地であった。なお前記検注状案には「鳥淵二段已見作」とあり、すでに鳥淵とりぶちの地名もみえている。

嘉元三年(一三〇五)一二月八日付の僧重円田地売券(続宝簡集)には「在荒川庄内野田原郷中字南垣内」とあり、以後野田原郷として文書に現れる場合が多い。


野田原村
のだはらむら

[現在地名]大山町荘田しようだ

妻木むき村の東にあり、妻木川が西流する。拝領高は一八九石余、本免は四ツ。飯田氏の給地があった(給人所付帳)。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」では高二四〇石余、竈数一八。天保九年(一八三八)の御巡見様御通行万端袖控(橋井家文書)の家数二五。幕末の六郡郷村生高竈付では生高二六六石余、竈数二七。文久元年(一八六一)には異国船渡来の節の淀江よどえ御蔵(現淀江町)への駆付民夫六人を割当てられている(在方諸事控)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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