上村(読み)ウエムラ

デジタル大辞泉 「上村」の意味・読み・例文・類語

うえむら〔うへむら〕【上村】

姓氏の一。
[補説]「上村」姓の人物
上村吉弥うえむらきちや
上村松園うえむらしょうえん

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精選版 日本国語大辞典 「上村」の意味・読み・例文・類語

うえむらうへむら【上村・植村うゑむら】

  1. 姓氏の一つ。

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日本歴史地名大系 「上村」の解説

上村
かみむら

大野庄四ヵ村の一つ。現朝地町の東端から大野町西部一帯に比定される。延応二年(一二四〇)四月六日大友能直後家尼深妙が所領を配分した際、上村は二分され、半分地頭職は各々大和太郎兵衛尉(一万田景直)と女子美濃局に譲与された(「尼深妙惣配分状」志賀文書)。上村の面積は、豊後国弘安田代注進状には五一町とあり、一万田景直跡は孫鶴丸(宣景)が、美濃局(横尾尼)跡は御所女房按察局がそれぞれ二五町五段ずつ伝領していた。貞治三年(一三六四)には上村半分が大友氏時領となっていた(同年二月日「大友氏時所領所職等注進状案」大友文書)。一万田氏は戦国期まで鳥屋とや城などに拠っていたことから、大友惣領家領に入った半分は按察局からの相伝分であろうか。その後同所は大友親世が継承している(永徳三年七月一八日「大友親世所領所職等注進状案」同文書)。この間鎌倉時代から南北朝期には上村をめぐる相論が幾つか起こり、永仁二年(一二九四)頃には領家三聖さんしよう(現京都市東山区)に対する頼雅律師の訴訟が棄却されている(一一月五日「藤原為雄奉綸旨案」天理図書館蔵三聖寺文書)。また南北朝期には上村南方をめぐる直北尼公と地頭の相論が、論所内の「池佐恵与征矢木堺」下地約一町を折中することで和与となっている(年未詳一二月二四日「新一奉書」同文書)。上村の名であったと推定されるものに田村たむら名・袴田はかまだ名・直北なおきた名・阿志野あじの名・宮貞みやさだ名・羽歩はぶ名・桑原くわばる上下名などがあり、また一万田いちまんだとよばれる地域もあった。多くが上村鎮守であった深山ふかやま八幡社とのかかわりで史料上に現れる。

〔田村名〕

現朝地町池田いけだのうちの田村を遺称地とする。


上村
かみむら

[現在地名]佐久町大字上本郷ほんごう久保田くぼたかげ大張おおはり中尾なかお

高野町たかのまち村の西方台地上、北沢きたざわ川の中流標高約八〇〇メートルの谷平地を中心に所在する。

東は高野町村、西は一二ヵ村入会の上村山で北八ヶ岳よこ岳山頂をもって諏訪郡に境している。南は中畑なかはた村(現八千穂やちほ村)、北は上小田切かみおだぎり(現臼田町)と境する。

佐久甲州往還が高野町宿から西行し、比高約二〇メートルの段丘上にのぼり、北沢川の比較的平坦な谷地に沿って上村をさかのぼって中尾から南に尾根を越えて大岳おおだけ川の谷に出ると、約七キロで中畑村枝郷鷽の口うそのくちに達する。これから再び上村山地内、大岳川に沿って北八ヶ岳の大岳(二三八一メートル)双子ふたご(二〇四〇メートル)大河原おおかわら(二〇九三メートル)にかけては、古い修験道の道筋があり、古代交通路としても利用されたものと考えられる。上村から鷽の口に達する道筋には土師器を出土する遺跡が点点と連なっている。鷽の口から四キロさかのぼった字堂古屋どうこやは中世寺院跡と伝承され、かつて石仏が存在し、寺久保てらくぼ上人岩しようにんいわ八海山はつかいさん等の名称を残す。現臼田うすだ相沢そうたく寺の仏面の幾つかもこの堂古屋から出たものと伝承されている。

本郷の北側、雲場くもば川との間に西方から高さ二〇―三〇メートルの尾根が伸びてきて、その末端近くに福田ふくだ城跡がある。郭・堀切を存し、本丸部分はじようみねとよばれ、穀倉跡といわれる所からは黒米を出し、五輪・石臼の破片を多く出土している。


上村
うえむら

[現在地名]上村上

北西流する免田めんだ川の形成する扇状地に集落が点在し、上流に皆越谷みなごえだに村がある。東は岡本おかもと(現岡原村)、北は免田村(現免田町)、西は永池ながいけ(同上)に接する。文永八年(一二七一)六月日の願成寺檜皮用途日記(願成寺文書)に「一、上むら 二十丁」「上村田代二(一脱カ)丁八反四丈内(田脱)四十丁 私田十丁八反四丈 寺田丁」とあり、球磨庄(人吉庄を領家側ではこう称した)に属した。上村は相良長頼の四男四郎頼村に与えられ(相良氏系図)、以来上村相良家が領した。暦応年間(一三三八―四二)と思われる年月日未詳の相良定頼并一族等所領注文(相良家文書)に「一所 同国球磨郡永里村同跡」とあり、「同跡」は「永里彦次郎跡」を示し、永里ながさと村があったことが知られるが、近世には上村に合併されている。

慶長国絵図に一千八一石五斗余とあり、寛永一一年(一六三四)郷村高辻帳に本田高一千二五一石五斗余・新田畑高一千六三七石一斗余とある。同一八年の検地帳によれば、上田三五町四反八畝余・中田五四町六反余・下田七二町二反七畝余、上畑一九町二反四畝余・中畑三一町二反六畝余・下畑三四町一反二畝余・野畑七町七反三畝余・屋敷一六町七畝余、合計二七〇町八反余、分米二千三八九石余とある。


上村
かんむら

[現在地名]甲府市上町かみまち住吉すみよし四―五丁目

下小河原しもこがわら村の東にあり、もとは同村と一村ともいう。村名は「かみむら」ともよんでいる。枝郷の持丸もちまるは北に離れてあり、産土神も別なため古くは独立した村だったとされる(甲斐国志)。文化三年(一八〇六)の村明細帳(西山梨郡志)によれば、集落は持丸のほか西村・北村・下村の四ヵ所に分散していたという。東側を蛭沢ひるさわ川と笛吹川(現在は平等川)が南へ流れる。元禄九年(一六九六)にごり川新堀開削以後二河川の間を並行して同川も南流するようになった。西方中小河原村で中道なかみち往還から南東へ分岐した道は鎌倉道の一本とされ、当村を通って西油川にしあぶらかわ村へ続く。「一蓮寺過去帳」には応永六年(一三九九)一二月二三日供養の一阿弥陀仏に「上村」と注記される。永禄四年(一五六一)の番帳の三三番には「上むらの禰き」がみえる。これは当地の諏訪明神(現諏訪熊野神社)の神職とみられ、府中八幡への勤番を命じられていた。


上村
かみむら

[現在地名]上尾市上・緑丘みどりがおか五丁目

中妻なかづま村の北東にあり、西は桶川宿・町谷まちや(現桶川市)。大宮台地端からの湧水は東の菅谷すがや村境を南流し用・悪水路しば川となる。南西端を中山道がほぼ南北に走り、往還の長さは七町一九間余、桶川宿へは一四町余と上尾宿への一里より近い。往還沿いは家が少なく畑・林となっていた(宿村大概帳)。足立郡大谷おおや領に属する(風土記稿)。天正一八年(一五九〇)九月一〇日、足立郡内に五千石を宛行われた旗本西尾小左衛門吉次の領地は桶川一帯とみられる(天正一八年「三千石以上分限帳」内閣文庫蔵、「天正慶長諸大名御旗本分限帳」、「寛政重修諸家譜」)。「風土記稿」は上尾下あげおしも村と当村に西尾氏陣屋設置の記事を載せる。元和四年(一六一八)西尾氏の常陸土浦移封により収公された後岩槻藩領となり、同藩領時には隣接するみなみ門前もんぜん久保くぼの各村とともに桶川宿内に含まれていたと推定される。


上村
かみむら

[現在地名]庄原市山内やまのうち

恵蘇えそ郡の南端近くに位置し、国兼くにかね川のつくる平野を中心に、その南北に集落が広がる。南は三谿みたに仁賀にか(現双三郡三良坂町)、東は本郷ほんごう殿垣内とのごうちの両村、西は水越みずこし村としも村に接する。村域南の権現頭ごんげんがしら古墳(一―三号)は直径一〇―二〇メートルの円墳で横穴式石室をもつ。ほかにも南山みなみやま古墳、金山塚かなやまづか古墳、田尻山たじりやま古墳群(一六基)など域内に数十基の古墳が知られる。

康正三年(一四五七)の備後国恵蘇郡西条上村八幡宮御祭御頭注文(上村八幡神社文書)に「西条上村」としてみえる。明徳四年(一三九三)一〇月一日付の延暦寺千手院領備後恵蘓西条河北等所務職補任状(山内首藤家文書)などの文書にも「西条」の名がみえるが、これはのちの上村・下村を含む地域をさすものと思われる。


上村
かみむら

[現在地名]上矢作町 小笹原こざさはらしま達原たつばら横道よこみち

信濃・三河・美濃三国の国境をなす山々から流れ出す上村川・飯田洞いいだぼら川・川などの流域からなる、四周を山に囲まれた山村。上村川の南西下流は漆原うるしはら村・下村に接する。物資移動の要路中馬ちゆうま街道が村内を通るため、馬を飼い運送業に従事する者が多かった。暦応三年(一三四〇)二月一〇日の覚心譲状写(遠山文書)に「おくとを山上下村」とあり、遠山とおやま手向とうげ郷のうちで、「新かとう二入道」に一期に限り譲られ、そののちは遠山弥二郎景房に譲られている。応永七年(一四〇〇)四月二日の足利義満御教書案(高山寺文書)では「遠山庄奥遠山上下村」とあり、この頃には高山こうざん(現京都市右京区)の池坊領であった。元亀三年(一五七二)一一月武田信玄は秋山信友に命じ、織田信長に従う遠山氏の諸城を攻撃させ、一二月の上村合戦で遠山氏は敗れている。


上村
かみむら

[現在地名]三和町上

小畠こばたけ村・常光つねみつ村の西に位置し、北は阿下あげ村、西は高蓋たかふた村。小田おだ川沿いに開ける沃野のうち最も広闊の地域を占め、高蓋・阿下とは山や峠で境をなすが、他の地域とは沃野続きである。神石郡内で最も平地に恵まれた当地域には、陰地おんじ一号遺跡・大上おおがみ遺跡・城江じようえ遺跡などの弥生遺物散布地や、友重ともしげとち梨迫なしざこ奥城江西おくじようえにし・奥城江東・奥城江北・尾迫おざこ・陰地・つづみ塚など多くの古墳群がある。なお付近の村々が多く中世の名田系の地名を伝えているのに、当村が上という一般地名であるのは、当地辺りの一動脈である小田川の源に位置するためと思われる。


上村
かみむら

[現在地名]徳地町大字上村

土田つちだヶ岳の南方に位置し、北はくし島地しまじ、西は藤木ふじき、東はたお米光よねみつ(現新南陽市)、南は馬神うまがみ(現新南陽市)の各村と接する。村のほぼ中央を佐波さば川の支流島地川が北西に流れ、両岸に水田が広がる。萩藩領で徳地宰判に属した。

貞和四年(一三四八)五月八日付の国衙領仁井令にいりようと東福寺領得地とくじ保の倉敷が置かれた伊佐江いさえ庄との境界争論に関する和与状案(東福寺文書)に「上村」の名がみえる。永禄五年(一五六二)一〇月一六日付の三戸八郎治家文書(「閥閲録」所収)によれば、毛利隆元が、得地上とくじかみ村のうち、三戸善兵衛の抱所の下作職・諸夫役・人夫役を免除する旨、児玉元良に通達している。


上村
かみむら

[現在地名]田辺町大字普賢寺ふげんじ

普賢寺川の中流域にある。東は多々羅たたら村と接する。

「京都府地誌」は「当村元綴喜(郷カ)ニ属シ筒城都ノ中央ニ当ル筒城岡朱智荘等ノ称アリ、永禄中故アリテ其称ヲ廃シ更ニ郷名ヲ付シテ普賢寺ト云、此時ニ当リテ宇津木・門前・中村・上村ノ四村アリ貢徴公事銭等各納セシニ、三好党賊地方ヲ乱掠シ戸口頓ニ減ス、其余燼合シテ更ニ本村トナル」と記す。所伝を近世に図示したと考えられる山城国綴喜郡筒城郷朱智庄佐賀庄両惣図(「田辺町史」所載)には、当村域に「中村」「門前」「上村」「宇津木村」とある。


上村
いわむら

[現在地名]萩原町上村うわむら

花池はないけ村の北、飛騨川東岸にあり、高台の上段いわだんと低地の下段しただんに集落がある。下段を飛騨街道が通る。桜洞さくらぼら村から流れ出た一関いつせき谷を境に北の萩原町はぎわらまち村に接し、同村よりやや高地に田畑を開いたので、上村とよばれたという(斐太後風土記)。萩原妙覚みようかく寺蔵文亀三年(一五〇三)の絵像本尊裏書に「益田郡上村」とあり、本願寺実如から知元に与えられている。慶長一八年(一六一三)の飛騨国郷帳では萩原郷に属し、高三六〇石余。元禄八年(一六九五)の検地帳(桂川文書)によれば高二二六石余、田九町八反余・畑一一町七反余、家数六〇(百姓四七・家抱一三)


上村
かどむら

[現在地名]上村かみむら

現上村と地域を同じくする。鎌倉時代以降、江儀遠山えぎとおやま庄の荘域に属したと思われ、戦国時代末期に遠山氏の支配するところとなった。和田わだ(現南信濃みなみしなの村)に本拠を構えた遠山氏の北の守りとして、程野ほどの城が築かれた。

元和四年(一六一八)に遠山氏が家督相続争いのために改易になると幕府領となり(「松平正綱等連署状案」千村文書)、千村氏・宮崎氏らの預りの時期を経て、貞享元年(一六八四)以降は飯島代官所の支配下に組み入れられた(遠山谷の民俗)

村高は正保四年(一六四七)に一七九石余(「信濃国絵図高辻」上田市立博物館蔵)、天保五年(一八三四)に一一四石余(信濃国郷帳)で、豊富な森林資源に目をつけた幕府は、近世初期から中期にかけて榑木年貢を課した。



かみのつじむら

[現在地名]旭区清水しみず一―三丁目・今市いまいち二丁目・新森しんもり一―五丁目

東成ひがしなり郡北東端、貝脇かいわき村の東に位置し、集落南方に貝脇村・馬場ばば村と錯雑する耕地を有する。摂河国境に築かれたつるぎ堤は、当村集落北端部を東西方向に走り、貝脇村境で北に折れて淀川堤防に至る。貝脇村から淀川堤までは「ばいから堤」ともいう。「ばいから」とは「埋骸」の意で、茨田まんだ堤修築に人柱となった強頸のなきがらを埋めた所という伝承がある(東成郡誌)。ばいから堤上の道は淀川堤で京街道(東海道)に合流。


上村
かみむら

[現在地名]鹿西町能登部上のとべかみ

南西は徳丸とくまる村と能登部下村、北西に眉丈びじよう山系の分水嶺を越えて上後山かみうしろやま分がある。邑知おうち地溝帯を長曾ながそ川が南流し、山麓に沿って西往来が通り、徳丸村に町並が続く。中世は能登部下村などとともに能登部村に含まれた。天文一七年(一五四八)二月二〇日の気多社免田年貢支配状(気多大宮司家文書)によれば、基佳支配分の能登辺のとべ村のうちに上村がみえ、気多社の免田が所在し九石三斗の年貢負担が定められている。

天正八年(一五八〇)から長連竜領で、同二〇年の能登部上村検地帳写(清水文書)が残る。



かみこしきむら

面積:三五・〇八平方キロ(境界未定)

上甑島・中甑島の二島からなり、東はさと村、北・西は東シナ海に面し、南は中甑島と下甑島の間の藺牟田いむた瀬戸を隔て鹿島かしま村。くしの瀬戸に甑島の名の起源と伝える甑岩がある。原始・古代の遺跡は少なく、弥生時代の遺跡として桑之浦くわのうら遺跡・江石えいし遺跡が知られるのみである。江石遺跡からは合せ口甕棺が出土した。甕棺の文化系統は北九州を中心に分布する須玖式土器に代表されるもので、北九州との交流が考えられる。古代以来甑島こしきじま郡に所属し、中世は薩摩国建久図田帳にみえる甑島四〇町のうちかみ村二〇町にあたる。宝治二年(一二四八)千葉氏の遺領甑島を鎌倉幕府御家人の小川季能が受領し、その子季直が下向、以後同氏が領治した。


上村
かみむら

[現在地名]徳山市大字上村の全域と西松原にしまつばら三丁目の一部

富田とんだ川中流域と、その支流の谷に集落が点在し、東は川曲かわまがりと徳山、西は四熊しくま、西南は下上しもかみの各村に接する。徳山藩領。

古くは富田郷(富田保)の内に含まれたらしく、「地下上申」には富田の内として、上村(下上村)と上上村(上村)の庄屋が一人であったためいっしょに上申される。もともと上村とよばれた村が上上村と下上村に分れたものであろう。


上村
かみむら

[現在地名]内浦町上

松波まつなみ村の西、松波川上流域に立地し、同村との境に笠師かさし宮が鎮座する。元禄一四年(一七〇一)の郷村名義抄(伊藤文書)には地元では「かむら」と称すると記す。正保郷帳に村名がみえ、高三七二石余、田一九町八反余・畑五町。承応三年(一六五四)能登奥両郡収納帳では草高三七九石余、免五ツ五歩。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高三九三石余、免五ツ七分、小物成は山役一七五匁。安永九年(一七八〇)の百姓家数七一(「松波組品々帳」谷内文書)。元禄七年の出来塩請取申帳(海老名文書)に三千二一六俵とあり、松波御蔵に納めている。


上村
かみむら

[現在地名]有漢町有漢・上有漢かみうかん

中村の北にあり、現在町の中心部である有漢市場うかんいちばから土居どいまでの有漢川流域に広がる。寛永備中国絵図・正保郷帳の下有漢村に含まれた。元禄八年(一六九五)の旧松山領新高帳(羽場文書)には上村とみえ、古高九〇六石余・新高一千二〇一石余。元禄郷帳・天保郷帳には村名に下有漢と肩書がある。延享元年(一七四四)まで松山藩領であったが、同年当村のうち一九〇石余は伊勢亀山藩領となり、残りの一千一〇石余は有漢上村と称して新たな松山藩主板倉氏領となった(備中村鑑)


上村
かみむら

[現在地名]大矢野町上

東は登立のぼりたて村、南はなか村に接し、大矢野岳(一二一メートル)をめぐって丘陵が起伏する。西は有明海を隔てて肥前島原半島の雲仙岳を指呼の間に望む。登立の成合津なろうづ江樋戸えびとが津口になっていた。慶安四年(一六五一)の肥後国大道小道等調帳(県立図書館蔵)に「大矢野嶽之麓なれう津、船着、何風ニ船三拾艘程懸ル」「なれう津ヨリ冨岡船着迄船路拾三里」とある。近世初期から入江・曲浦を利用した小干拓が進められ、江樋戸は新地潮溜の樋門の別称「海老戸」に由来する地名という。

天草・島原の乱後大矢野組に属し、庄屋吉田家が同組大庄屋を世襲。


上村
かみむら

[現在地名]下津町上

小畑こばた村の西北に位置し、西北流する小畑川の下流みや川沿いに開けた村。南は小原おはら、西は下津しもつ、西北はかた、北はよろの各村に囲まれ、下津浦との間にはなか(赤松山)とよぶ丘陵がある。中山はかつて海中の島であった時代があり、当時、村は海浜にあったとも伝え、村内に那智浦なちうらの地名が残る(長保寺記録抜書「下津町史」所収)。村名の上村は下津に対する称で、「続風土記」に、古くは「上村・中村・下津浦と分ち呼しに、中村亡絶して田地の字となれり」と記す。


上村
かみむら

[現在地名]豊田市上郷かみごう

市域南端部に位置する。村域は矢作川の支流家下やした川と明治用水に囲まれる。中世、村域一帯は上野うえの庄に属したと推定される(豊田市史)。近世初めは岡崎藩領。寛永郷帳時には、岡崎藩領五二〇石、行福ぎようふく寺領一六石、隣松りんしよう寺領三〇石。寛文五年(一六六五)岡崎藩主水野監物忠善の開墾命令により、当村から上村新郷が分れ、次いで同九年に広畔ひろくて新郷・福受ふくじゆ新郷(焼寺新郷)が分郷。

上・下・粟寺あわでら馬場ばば国江くにえの上野諸村と大林おおばやし村の入会山である長根ながね山をめぐり、慶長一六年(一六一一)から正保二年(一六四五)に山論が起きた。正保二年には大林村が岡崎藩領から幕府領となり、領主の異なる村同士の争論となる。さらに同三年には阿弥陀堂あみだどう村が介入、寛文五年の開墾令により成立する五箇新郷ともからんで長期化した。



かみなだむら

[現在地名]双海町上灘

現双海町の中心。四国山地中の犬寄いぬよせ(三〇六メートル)から山地を解析して西流する上灘川流域の村。川沿いに耕地と集落とが発達している。北に伊予灘をひかえ、東はこうかわ村、西は高岸たかぎし村と接する。浮穴うけな湯並ゆなみ郷一〇村の一で、大洲藩領郡内ぐんない(元和三年以来の旧領)のうちである。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の浮穴郡の項に「上灘村 茅山有」、高六六七石五斗六升二合、うち田三七九石七斗一升、畠二八七石八斗五升二合と記す。上灘には大洲藩上灘御蔵があって、浮穴郡など一三ヵ村の年貢米が集められ、大洲藩御蔵奉行が上灘浦から船積して大坂蔵屋敷まで送られた。


上村
かみむら

[現在地名]堺市美木多上みきたかみ鴨谷台かもたにだい一―三丁・城山台しろやまだい一―五丁・御池台みいけだい一丁・同三丁・同五丁・新檜尾台しんひのおだい二丁・庭代台にわしろだい一―二丁・原山台はらやまだい三丁

檜尾村の南東にある。村のほとんどが丘陵地で、ほぼ中央を北流する和田わだ川沿いにわずかな平地がみられる。大鳥郡に属する。中世は和田みきた庄に含まれた。寛永末年頃の状況を記したと推定される和泉国郷村帳によると高六一〇石余(山年貢二石含む)。以後幕末まで大幅な変化なく続く。なお天保一四年(一八四三)の村明細帳(和田家文書)によると、文禄三年(一五九四)の検地では町数四八町五反余で高六一〇石余とされたが、このうち五町七五石は「畝違無地」で検地高が多くなっており、百姓にとって大いに迷惑なことであるとして訴え、堺奉行石河土佐守の時吟味をしてもらい、以後表高から七五石ずつ差引き免割して納めることになったという。


上村
うえむら

[現在地名]伊賀町上村

れい(七六五・八メートル)北西の裾野に位置し、村の北端を西流する柘植つげ川を隔てて中柘植村に対し、東部を大谷おおたに川が西流し柘植川に注ぐ。慶長六年(一六〇一)古検を改めている。本高二一〇・五石、平高四一六・九石。すべて野依清右衛門・青木忠兵衛の給地。寛延(一七四八―五一)頃の戸数四六、人口一八六、馬一、牛一〇(宗国史)

入会地は下柘植村・愛田えた村と共有する場合が多く、山論に及んだ時も共同して解決に当たっている。慶安二年(一六四九)上阿波かみあわ子延ねのび(現大山田村)との間に起こった廻り谷まわりだにをめぐる山論は、その後貞享二年(一六八五)・三年・元禄二年(一六八九)と度々問題になったが、同三年同地を子延領とする藩の判決があった(→下柘植村、大山田村の→上阿波村


上村
うえむら

[現在地名]宇治市五ヶ庄

五ヶ庄ごかのしよう村内の南西部に位置し、西端は宇治川右岸に接する。一七世紀中期以前は近衛家領、その後は幕府領とされた。

山科郷古図(彰考館旧蔵)によれば、この地は宇治郡七条五里「大津里」の東南部にあたり、中世以前に存在した岡屋おかのや津の縁辺に位置すると考えられるが、正確な津の位置は不明。また後法興院記文明一五年(一四八三)八月五日条によれば、上村付近に「五ケ庄冨家村」が存在していたことが知られ、また宇治川を隔てて上村と対向する位置に「冨家前ふけのまえ」(現槇島町吹前ふけまえ)の小字もあり(明応二年「冨家殿真木方内検帳」陽明文庫蔵)、上村付近の宇治川河畔に藤原忠実の別業冨家殿があったと推定される。


上村
かみむら

[現在地名]富津市上

きぬ村の南東方にある。史料上は上ノ村などとみえ、吉野よしの郷七村のうち。建武二年(一三三五)九月二七日の足利尊氏下文(宇都宮文書)天羽あまは郡内古谷ふるや吉野よしの両郷とみえる古谷は当地の古屋に比定され、三浦介平高継に勲功の賞として与えられている。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に上村とみえ、高八六〇石で、幕末まで変わらない。正保国絵図では上野、元禄郷帳では上村。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数一二〇で、旗本大久保領。幕末も同様。幕末には西村氏・高橋氏らが寺子屋を開いていた。



かみもみむら

[現在地名]久米南町上籾

中籾村の北にあり、東のまつ村から打穴うたの川の谷に通じる道筋にあたる。筒宮つつのみや山脈の東側高所に位置し、北東は南庄西みなみしようにし村。「作陽誌」によれば、北東の北庄山手きたしようやまて村に通じる乢は大奥おおおく乢、さかい(現中央町)に通じる乢は浄慈庵じようじあん乢、松村境にあるのは剣田けんだ乢という。古くは村の内であったが、延宝三年(一六七五)上籾・中籾・下籾の三村に分村したという(元禄二年「籾村差出帳」今井文書)


上村
かみむら

面積:一二六・四二平方キロ

下伊那郡の東部、遠山とおやま郷の最北に位置する山村。北は大鹿おおしか村、東は赤石あかいし山脈を隔てて静岡県、東から南にかけて南信濃みなみしなの村、西は伊那山脈を隔てて飯田市、喬木たかぎ村に接する。

東西を赤石・伊那の両山脈、遠山川の支流上村川に沿う谷の北部は地蔵じぞう(一三二〇メートル)によって他地域と隔てられているため、隔絶性の強い地域である。

上村川に沿った谷に南から上町かんまち下中郷しもなかごう・上中郷・程野ほどの炭焼すみやき(一五五四メートル)の南に下栗しもぐりなどの集落がある。上町は秋葉道の難所といわれた小川路おがわじ峠の峠口の宿場として栄え、現在でも村の経済的、文化的中心をなしている。飯田地方との交通は古くは伊那山脈を小川路峠か矢筈やはず峠で越える秋葉道によったが、現在は昭和四三年(一九六八)完成の赤石林道によるか、上村川から遠山川の谷を下り、天龍村平岡ひらおかに出て国鉄飯田線に至るほかなく、南信濃村とともに古くから秘境といわれてきた。


上村
くみあげむら

[現在地名]大洋村汲上

台濁沢だいにごりさわ村の南にあり、東は鹿島灘に臨む。文永一二年(一二七五)正月二五日の中居幹村寄進状(彰考館蔵)に「奉寄進汲上東福寺御宝閣」とあり、鎌倉中期にはすでに中居氏の勢力下に置かれていた。以来中居氏の支配が継続したらしく、元亨二年(一三二二)八月一七日の中居幹文書状(同館蔵)に「常陸国鹿島郡汲上東福寺座主職□□幹村 被寄進琳智房之間、(中略)任琳智寺務之例為当職、令領掌田畠在家等」とあり、中居幹文は東福とうふく寺の保護者として、座主職の任免権を掌握している。


上村
かみむら

[現在地名]龍野市揖保町揖保上いぼちよういぼかみ

中陣なかじん村の西に位置し、揖西いつさい郡に属する。南はなか村、西は揖保川を挟んで新在家しんざいけ(現揖保川町)。揖保川には夜比良やひらの渡が設けられていた。揖保上村とも称された。文禄三年(一五九四)六月五日の豊臣秀吉知行方目録(金井文書)に上村とみえ、小出吉政は当村の二三二石余などを与えられている。翌四年八月二一日、片桐貞隆は豊臣秀吉から伊保上いぼかみ村の内で二〇〇石を宛行われた(「豊臣秀吉朱印状」片桐文書)。慶長国絵図にも村名がみえる。江戸時代の領主の変遷は北龍野村と同じ。寛永一三年(一六三六)の龍野領村々高辻帳(八瀬家文書)では池田輝政による内検地高四三七石余、高三六一石余。正保郷帳では田方三三二石余・畑方二九石余。


上村
かみむら

[現在地名]水口町やま

どう村の南東に位置し、村の中ほどをおもい川が西流。東は松尾まつお村、南は丘陵を介し名坂なさか村、北は丘陵続きに蒲生がもう郡。中世は柏木かしわぎ御厨内上山村かみやまむら郷に属した。集落の周辺に中世城館跡が複数確認されており、上山氏や山中氏ら土豪の支配を受けたものと思われる。寛永石高帳では堂村・しも村と併せて上山村とみえ、高一千三七五石余、下総古河藩領。天和二年(一六八二)水口藩領となる。元禄郷帳の上村七〇四石余は堂村を含むとみられる。


上村
かみむら

[現在地名]北区小野上おのかみの

清滝きよたき川と小野川が合流する辺りに開けた村で、小野郷十ヵ村の一。

享保一四年(一七二九)の山城国高八郡村名帳による村高は一一八石八斗六升余で、すべてが仙洞御料。安永三年(一七七四)五月の書上によれば、人口は、男一二六人、女九二人の計二一八人(日下部大助家文書)。天保一五年(一八四四)三月の書上には男七四人、女七六人の計一五〇人、嘉永五年(一八五二)三月の書上では男八二人、女七七人の計一五九人(同文書)


上村
うえむら

[現在地名]重信町上村

重信川の中流左岸にあり、河岸段丘上に集落が立地する。東は下林しもばやし、北は重信川を隔てて田窪たのくぼ牛淵うしぶち南野田みなみのだ、西は津吉つよし窪野くぼの(現松山市)の村々に接する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)浮穴うけな郡の項に「上村 日損所、林柴山有、小川有」とみえ、村高一九八石八斗五升、うち田一六〇石五斗一升、畑三八石三斗四升とある。江戸後期の新田開発によって村高は天保五年(一八三四)に三二六石七斗三升一合となり、さらに明治四年(一八七一)には四四六石二斗一升六合と増加している(伊予国旧石高調帳)。このような新田開発による村高の増加は西隣の津吉村からの出作によるものが多く(宝暦一〇年の上村出作分野取帳)出作しゆつさくの小字もみられ、同村からの移住はすでに万治元年(一六五八)頃から開始されている(重信町誌)


上村
かみむら

[現在地名]京北町大字細野ほその

細川ほそかわ七ヵ村の一。田尻谷たじりだに川が大堰おおい川支流細野川に合流する地点に位置し、かさ峠越の道(現周山街道)に沿った山間集落。細野川をさかのぼるとたき村、下るとなか村に達する。古代は「和名抄」に記す池辺いけのべ郷に属し、のち細川庄に含まれる。

慶長七年(一六〇二)幕府領。その後細川のしも村など四ヵ村とともに二条家領に編入されるが、その時期は元禄元年(一六八八)以前と思われる。嘉永三年(一八五〇)の年貢御勘定帳(二条家文書)によると、村高一〇九・七石、免率五割七分、庄屋給一・一石、年寄給五斗、狩人給三・六七七石で、明治まで変化はない。


上村
かんむら

[現在地名]大分市荏隈えのくま 大石町おおいしまち・荏隈町など

大分川の北岸、永興りようご村・竹上たけのうえ村の南にある。村域内に条里の遺構が残る。正保郷帳に村名がみえ田高三五六石余・畑高七三石余、荏隈郷に所属。元禄一〇年(一六九七)府内領郷帳(府内藩記録)では高五六八石余。領主の変遷は駄原だのはる村に同じで、里郷上村組。「日本九峰修行日記」によると、文化一五年(一八一八)一〇月四日修験野田泉光院は豊後国分寺に詣でたのち当村で一泊し、府内城下に向かっている。天保一一年(一八四〇)の家数八四(「尼ヶ瀬村庄屋文書」県立大分図書館蔵)


上村
うえむら

[現在地名]八日市市五智町ごちちよう

中小路なこうじ村の南東にあり、北東愛知えち川河岸から南西の下大森しもおおもり村境までの細長い村域をもつ小村。天平年間(七二九―七四九)創建と伝える興福こうふく寺の門前集落の形をとる。うえ村と記すこともあった。寛永石高帳に村名がみえ、高一四一石余、彦根藩領。元禄八年大洞弁天寄進帳では家数一三・人数六四(男三二・女二七、寺社方男五)。集落北部には吉田よしだ井、南部にこま井が流れるが、当村の灌漑用水はたか井を利用し、高井郷構成村の一。明治六年(一八七三)の地券図(八日市市教育委員会蔵)では、集落北東部の愛知川河畔および南西部のほとんどは林に覆われ、何筆かの開墾畑が散在するにすぎない。


上村
かみむら

[現在地名]三木市志染町御坂しじみちようみさか

池野いけの村の北東に位置し、山田やまだ川と淡河おうご川が当村内で合流し志染川となる。北は大谷山おおたにさん村。慶長国絵図に「志々ミノ上村」とみえる。初め姫路藩領、元和三年(一六一七)明石藩領となる。正保郷帳でも明石藩領で、田方四六二石余・畑方四五石余。「寛文朱印留」でも同藩領となっている。元禄一六年(一七〇三)旗本一柳領となるが、天保一三年(一八四二)からは再び明石藩領となり、幕末に至る(「美嚢郡誌」、「御年譜」松平家蔵、旧高旧領取調帳)


上村
かみむら

[現在地名]倉敷市児島上の町こじまかみのちよう・児島上の町一―四丁目・児島下の町こじましものちよう四丁目

小川おがわ村北部の東に位置し、東の仙随せんずい(二六九・九メートル)と西の石鉄いしづち(二二〇・六メートル)に挟まれ、南は下村と接する。正保郷帳では高六四三石余。享保六年(一七二一)の田畠三七町九反余、池一二、家数九三・人数七〇〇(備陽記)。文化年間の「岡山藩領手鑑」によると高六四三石余、直高八九五石余で池田和泉の給地、田二九町三反余・畑九町四反余、ほかに開方新開として田畑四町四反余、池一四、樋二一、井戸一〇、家数二一四・人数一千五七、牛八三、鍛冶屋四軒・紺屋三軒(藍瓶三本)・酒屋二軒、桶屋二五・大工八、木挽・左官・畳屋各二。

瑜伽ゆが山から流れ出る小川はおお池に入り、下村を通って瀬戸内海に注ぐ。


上村
かみむら

[現在地名]相生市矢野町上やのちようかみ

瓜生うりゆう村の東に位置する。三濃みのう山を源流とする鍛冶屋かじや川が地内で矢野川と合流し、南部に開けた河谷平地と、その北東方の後背山地に立地する。集落は平地部に点在する。江戸時代の領主の変遷は下土井しもどい村に同じ。正保郷帳に村名がみえ、田方一〇五石余・畠方一二六石余、「草山有・新田有」とある。天保郷帳では高二六三石余。用水は瓜生村のおお池としん池から瓜生村・上村・菅谷すがたに村の順で取水した(寛政元年「取水につき願書」上自治会所蔵文書)


上村
じようむら

[現在地名]岱明町上

東部を今泉いまいずみ川が南流、東は古閑こが村、南は林田はやしだ村・友田ともだ村、北は開田ひらきだ村に接し、北部を三池みいけ往還が通る。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳によると田一一九町八反二畝余・畠屋敷八〇町八反五畝余、分米一千八九七石九斗余。同一一年の検地帳には「大野内上村」とあって田一四四町六反余・畠九六町九反五畝余・屋敷一三九筆一五町七反余、分米七九五石余、家数三二五・人数四四四、牛七一。分米の減少は元禄国絵図に当村のうちとして記す古閑村・友田村・開田村などの同年の検地帳が残るところから、慶長期にいくつかの村が分村したものと思われる。


上村
かみむら

[現在地名]勝山町上

月田つきだ川の支流の岩井谷いわいだに川上流の狭い河岸段丘上に位置。吉備高原の五〇〇メートル級の山に囲まれ、北は岩井谷村。中世後期、広峯ひろみね神社(現兵庫県姫路市)御師の檀那場で、文明一四年(一四八二)八月一〇日の檀那村書(肥塚家文書)に「大ミやうかのおこ、こミやうかのこんのかみ」、年未詳の檀那村書(同文書)に「井原 ためとも」「井原 のりさね」、天文一四年(一五四五)二月吉日の檀那村付帳(同文書)に「いわらかミ村一ゑん」「のりさねこうけ」「つのわら」「こうつはたをくさ」「ためとものりゆき」など、当地に関連した地名がみえる。



かんなたむら

[現在地名]上宝村宮原みやはら 上灘かみなだ

高原たかはら川左岸、国見くにみ山の東北山麓にある山村で、古くは宮原みやはら村の枝村であったが、朝廷から栗原くりはら神社に神名田として寄賜されたことから村名が起こったという(斐太後風土記)。南は新田あらた村、鼠餅ねずもち村境に当村枝村の古橋ふるはしがある。天正一五年(一五八七)一二月一三日の家臣長屋喜兵衛に与えた金森長近宛行状(白川文書)に「九石七斗七升 高原本郷の内 かんなた村」とある。元禄飛騨国検地反歩帳によると高原郷に属し、高一六石余、田一反余・畑四町八反余。「飛騨国中案内」には傾斜地で宮原村より相当地質が劣るとし、免二割八分一厘八毛、家数七はみな百姓。


上村
かみむら

[現在地名]温泉津町温泉津大字上村

小浜こばま村の南、福光ふくみつ川中流域に位置する。中世に大家おおえ庄福光郷に含まれ、福光上村(単に上村とも)とよばれ、福光下村・みなととともに福光三方ふくみつさんぼうと称した。銀山街道から西田にした村で分岐し福光下村で山陰道に合流する道が通る。正保国絵図に上村とみえ、高一八七石余。元禄一〇年(一六九七)の石見銀山領村々覚によれば田方一五〇石余・畑方三七石余、年貢高は米八七石余・銀三〇三匁余、小物成は藪役銀二匁余、家数は本家一七・門屋三四、人数二二九。


上村
うえむら

面積:九〇・〇一平方キロ

球磨郡の南東部にあり、南部は白髪しらが(一四一六・七メートル)・小白髪岳(一一八三・一メートル)を中心とする山々によって、宮崎県えびの市・小林こばやし市に接する。東は多良木たらぎ町・岡原おかはる村、北は岡原村・免田めんだ町、西はにしき町に接する。白髪岳北麓の扇状地で、南東から免田川、東部から百太郎ひやくたろう溝および幸野こうの溝が流れる。村域の四分の三は山林地帯で、白髪岳頂上付近はブナの原生林の南限とみられている。


上村
かみむら

[現在地名]美里町毛原上けばらかみ

みや村の北東に位置し、貴志きし川が村の中央を蛇行しつつほぼ西南に流れる。毛原庄内で貴志川上流にあるため村名が生れたと「続風土記」はいう。北から東にかけては長谷はせ庄の宮村に接する。高野街道が貴志川北西岸を通る。村の東、弥生遺跡のある笹瀬ささせ(現笹の瀬)と、南にみよう(現名村)の二つの小名がある。永享二年(一四三〇)三月二一日の公文代小次郎文書紛失状(飛見家文書)に「キノクニナンカノコヲリケハラノシヤウカミムラノウチコモイケノマエ」とある。


上村
かむら

[現在地名]堺市かみ

長承寺ちようしようじ村の南東に位置する。村の西部を熊野街道が通る。集落はほぼ村の中心部に集中する。大鳥郡に属する。「荷村」とも記したという(泉州志補遺)。建久七年(一一九六)七月四日の和泉国留守所下文案(「徴古雑抄」大鳥郷文書)に「上村刀禰高志」とみえる大鳥郷の上村は当地をさすか。大鳥郷上村の動静については大鳥郷・大鳥庄の項参照。近世初頭の実報院諸国旦那帳(熊野那智大社文書)に「大鳥之内」として「か村」がみえる。


上村
ひのうえむら

[現在地名]行田市樋上

北は佐間さま村、西は下忍しもおし村、南は堤根つつみね村に接している。村域には古墳・方形周溝墓を含む集落跡の鴻池こうち武良内むらうちの二遺跡がある。寛永一二年(一六三五)の忍領御普請役高辻帳(中村家文書)に「堤根樋上」とみえ、幕府領で役高九一七石余。同一六年忍藩領となり、幕末まで変わらず。田園簿によると「樋上堤根村」の村高は高辻帳と同じ、反別は田方六九町二反余・畑方三五町二反余。元禄郷帳では樋上・堤根・堤根新田の三村に分けられ、いずれも三〇五石余に三等分されている。


上村
うえむら

[現在地名]明和町上村

はらい川右岸、伊勢参宮街道の南にある。北は金剛坂こんごうさか村、東は有爾中うになか村、南はいけ村、西は岩内ようち村と境する。文禄三年(一五九四)の検地帳写(徳川林政史蔵)によれば田畑九二町六反三畝余、分米一千一六一石六斗余で、田が圧倒的に多い。小字名に馬ほり・たか丸・かなけ田・こうた・五ノ坪・馬ノめ・さとの内・ミたう後・一町た・からす・長門などがみえる。近世は和歌山藩田丸領。


上村
かみむら

[現在地名]那賀町名手上なてかみ

しず(現穴伏川)の北西側に位置し、北東は伊都いと広口ひろくち(現かつらぎ町)、南と西は平野ひらの村に接する。村の北方には小名大松おおまつがあった。中世は高野山領静川しずかわ庄に含まれたが、江戸時代は和歌山藩領として伊都郡代官所の管下となった。慶長検地高目録によれば村高一二二石余、小物成八斗八升四合。名手組に属し、「続風土記」では高一三六石余、家数五七、人数二三一。


上村
かみむら

[現在地名]嘉穂町上

大隈おぐま村の南に位置し、村の西を遠賀おんが川が流れる。本村と鷺迫さきさこに集落がある(続風土記拾遺)。小早川時代の指出前之帳では上村の田三七町七反余(分米三七六石余)・畠四町五反余(分大豆二九石余)。江戸時代は福岡藩領。慶長七年(一六〇二)の検地高八一三石余、うち大豆六六石余(慶長石高帳)。元禄五年(一六九二)には高八三六石余、人数三〇〇(田圃志)


上村
かみむら

[現在地名]明日香村大字かむら

細川ほそかわ村の東、細川谷最東端上方の山村。「大和志」に「かみ属邑二」とある。慶安五年(一六五二)頃、細川村から分離独立したという。近世を通して高取藩領。江戸時代中期、寺院に長安ちようあん寺・教雲きよううん(浄土宗)・薬師堂があった(地方蔵方寺尾勤録)。長安寺後方山中の不動ふどうの滝は細川川の一水源で、七月から八月までこの水で洗眼すると効験があるという(飛鳥古跡考)


上村
かみのむら

平塚ひらつか北風原ならいはらを含む一帯に比定される。建武五年(一三三八)一〇月一一日の源某寄進状(安田文書)長狭ながさ柴原子しばはらこ郷上村とみえ、同村内奈良井原ならいはらの田地一町が大山おおやま寺の大般若経転読料所として寄進されている。貞和二年(一三四六)六月一三日の大炊助源某寄進状(同文書)には柴原子郷上村内新大山寺とみえ、大山寺の敷地として大田代おおだしろの地が寄進されている。


上村
うえむら

[現在地名]市島町上牧うえまき 牧南まきなん

北端を鴨庄かものしよう川が流れ対岸はまき村、西は喜多きた村。「丹波志」はもと牧村の枝村とする。南端にある出戸のはしは喜多村とともに知行された(丹波志)。領主の変遷は梶原かじわら村に同じ。正保郷帳に村名がみえ田高六〇石余・畠高六石余、柴山あり、林・日損少しあり。


上村
かみむら

[現在地名]上石津町上

牧田まきだ川左岸にある山村で、東は堂之上どうのうえ村。慶長一二年(一六〇七)の時六ヶ村惣高覚(伊藤文書)によると、高三三〇石余で反別は上田八町余・中田一町七反余・下田九反余、上畑一三町六反余・中畑二町余・下畑一町六反余、茶畑三畝余。旗本高木三家領。元禄郷帳に高三二五石余とあり、高木三家領。元禄一二年(一六九九)の高木三家知行高帳(福長文書)によると西高木領一七〇石余・北高木領七七石余・東高木領七七石余。


上村
かみむら

[現在地名]生駒市上町・あすか野北あすかのきた一―三丁目・あすか野南一―三丁目・真弓まゆみ一―四丁目・あすか台あすかだい

南田原みなみたわら村の東部に連なる小丘陵の東側、富雄とみお川両岸に位置する。「和名抄」添下郡鳥貝とりかい郷の西端と推定され、中世には上鳥見かみとみ庄があった。


上村
うえむら

[現在地名]輪島市上山町かみやままち

池田いけだ村の北、男女滝なめたき川支流黒杉くろすぎ川東岸山地に立地。正保郷帳に村名がみえ、高三七石余、田方一町余・畑方一町四反余。承応三年(一六五四)の村御印の高三九石余、免四ツ八歩(能登奥両郡収納帳)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高四五石、免五ツ二歩、小物成は山役一八匁・漆役二匁(三箇国高物成帳)


上村
かみむら

矢野やの庄内のいくつかの小集落の集合体をさす用語で、地頭方・領家方(東寺方)にまたがる。下地中分に先だって作成された実検取帳・中分分帳には上村の名はみえない。西奥にしおく村を含む庄内北部の小集落群をさすとの説がある。応安二年(一三六九)三月一五日、矢野庄西方(領家方・東寺方)の上村名主・百姓等が、十三日講における実円の刃傷事件は実円に非がなく所帯の没収は不当だとした申状・起請文を提出している(「西方上村名主・百姓等申状并連署起請文」東寺百合文書)


上村
かみむら

[現在地名]野迫川村大字上

中原なかはら川の上流、なか村の西に立地。十二村じゆうにそん野川のかわ組に属する。慶長郷帳では十二村二〇〇石のうちに含まれ、幕府領。


上村
うえむら

[現在地名]西脇市富吉上町とみよしかみまち

よう村の北に位置し、東は大門だいもん村・津万井つまい(現黒田庄町)。慶長国絵図に村名がみえる。江戸期の領主の変遷は西田井にしだい村に同じ。正保郷帳では田方一四九石余・畑方三二石余。


上村
うえむら

[現在地名]伊勢市矢持やもち町 上村

横輪よこわ川の上流河谷、菖蒲しようぶ村の南にある。一宇いちう郷の一村。慶長一三年(一六〇八)一二月二一日の山地売券(輯古帳)の売主として「上村二郎三郎」がみえる。幕府領で、天保九年(一八三八)の指出帳(徳川林政史蔵)によれば家数一九、人数一〇一。


上村
かみむら

[現在地名]和泉市上町・鶴山台つるやまだい一―三丁目

上代うえだい村の北西方の平坦地にあり、北部を熊野街道(小栗街道)が通る。慶長一〇年(一六〇五)和泉国絵図に村名がみえるが高は不明。寛永末年頃の状況を記したと推定される和泉国郷村帳に「信太郷上村」とあり、高三七九石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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