日本歴史地名大系 「荒川庄」の解説
荒川庄
あらかわのしよう
紀ノ川南岸の氾濫原、
〔立荘〕
荘名は「和名抄」などに所見する荒川郷によると思われるが、荘園名としての初見は大治四年(一一二九)一〇月五日付の鳥羽院庁下文抄写(御影堂文書)で、在庁官人らに宛て、「使者相共任本券打定管那賀郡荒川御庄四至示」と命じている。文治二年(一一八六)五月日付の高野山住僧等訴状(宝簡集)には、もと宇治平等院領で、平等院大僧正(行尊)が四至を境して鳥羽上皇に寄進したことが記されるから、鳥羽院領としての成立は大治四年である。右の院庁下文抄写には、四至が「東限檜峯并黒川、南限高原并多須木峯、西限尼岡中心并透谷、北限牛景淵并紀院淵南古溝」と示され、この四至は一部字句に異同はあるものの、以後踏襲される。東限の「檜峯」は後には
荒川庄は鳥羽上皇寄進後の保延元年(一一三五)、院庁使・国使・下司によって詳細な検注が行われた(同年一二月二九日付「荒川庄田畠桑并在家等検注状案」続宝簡集)。総面積は田三六町九段三一〇歩(現作三二町七段一〇〇歩・荒四町二段二一〇歩)、畠五三町六段八〇歩(現作二〇町五段二六〇歩・荒三三町一八〇歩)、桑二千九三六本、在家三一宇。このうち田には保有者名の記載はないが、畠・桑・在家は保有者・在家役負担者名を記載し、畠は計四四人、桑は計三五人が名請している。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報