荒川庄(読み)あらかわのしよう

日本歴史地名大系 「荒川庄」の解説

荒川庄
あらかわのしよう

紀ノ川南岸の氾濫原、柘榴ざくろ川流域、野田原のたはら川の奥地など、現桃山町のほぼ全域と現粉河こかわ町の一部を占める広大な荘園で、荒河・安楽川・安楽河などとも記す。平安時代後期以来、中世を通じて史料が比較的豊富に残り、荘内での諸事件も多岐にわたるため、実態の研究が進んでいる荘園の一つといえる。

〔立荘〕

荘名は「和名抄」などに所見する荒川郷によると思われるが、荘園名としての初見は大治四年(一一二九)一〇月五日付の鳥羽院庁下文抄写(御影堂文書)で、在庁官人らに宛て、「使者相共任本券打定管那賀郡荒川御庄四至示」と命じている。文治二年(一一八六)五月日付の高野山住僧等訴状(宝簡集)には、もと宇治平等院領で、平等院大僧正(行尊)が四至を境して鳥羽上皇に寄進したことが記されるから、鳥羽院領としての成立は大治四年である。右の院庁下文抄写には、四至が「東限檜峯并黒川、南限高原并多須木峯、西限尼岡中心并透谷、北限牛景淵并紀院淵南古溝」と示され、この四至は一部字句に異同はあるものの、以後踏襲される。東限の「檜峯」は後には檜橋ひはし峰とも記され、「続風土記」は鞆淵ともぶち(現粉河町)との境の火箸ひはし(現日待峠)考証。さらに同書は南限の「高原」は黒川くろかわ村の小名にあり、「多須木峯」は黒川・野田原両村境にたすきヶ峰があり、西限の「尼岡」は上野うえの(現最上)にあり、「透谷」は未詳、「牛景淵・紀院淵」は調月つかつき村の小字城の壇じようのだん田地に字名として残ると考証している。野田原の西端に田鶴たづの地名があって、「多須木峯」との関係が気掛りではあるが、「続風土記」の考証はほぼ妥当なものであろう。北側の田中たなか(現打田町)、東側の鞆淵庄、西側の吉仲よしなか(半分は現貴志川町)などとの間に境界をめぐっても紛争が続く。また北方紀ノ川の氾濫原は、中世を通じて新田開発が行われた。後述する建長六年(一二五四)の荒河庄供料相折帳(又続宝簡集)以下には本庄と並んで新庄が所見し、検注帳の田畠所在地表記にも用いられるが、どの地域をさすかは未詳。

荒川庄は鳥羽上皇寄進後の保延元年(一一三五)、院庁使・国使・下司によって詳細な検注が行われた(同年一二月二九日付「荒川庄田畠桑并在家等検注状案」続宝簡集)。総面積は田三六町九段三一〇歩(現作三二町七段一〇〇歩・荒四町二段二一〇歩)、畠五三町六段八〇歩(現作二〇町五段二六〇歩・荒三三町一八〇歩)、桑二千九三六本、在家三一宇。このうち田には保有者名の記載はないが、畠・桑・在家は保有者・在家役負担者名を記載し、畠は計四四人、桑は計三五人が名請している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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