野間口兼雄(読み)ノマグチ カネオ

20世紀日本人名事典 「野間口兼雄」の解説

野間口 兼雄
ノマグチ カネオ

明治・大正期の海軍大将



生年
慶応2年2月14日(1866年)

没年
昭和18(1943)年12月24日

出生地
薩摩国(鹿児島県)

学歴〔年〕
海兵(第13期)〔明治19年〕卒,海大選科〔明治32年〕卒

経歴
海軍少尉任官。赤城航海長となり、日清戦争に西海艦隊参謀で従軍。海大卒業後、英国駐在、山本権兵衛海相秘書官、海軍省副官、高千穂松島・浅間各艦長。日露戦争後軍務局員、第一艦隊、佐世保、呉鎮守府各参謀長などを経て、大正2年軍務局長、3年呉工廠長、5年海兵校長、7年舞鶴鎮守府長官、8年第三艦隊司令長官などを歴任。9年大将、教育本部長。12年軍事参議官、横須賀鎮守府司令長官、軍事参議官となり、昭和11年退役。薩摩閥の一人。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「野間口兼雄」の解説

野間口兼雄

没年:昭和18.12.24(1943)
生年:慶応2.2.14(1866.3.30)
明治大正期の海軍軍人。薩摩(鹿児島)藩士野間口周輔の3男。明治20(1887)年海軍兵学校卒業。翌年海軍少尉に任官後,航海術を専門に活躍,日清戦争(1894~95)では西海艦隊参謀を務めた。31年海軍大学校へ入学,卒業後イギリス駐在を命じられた。帰国とともに同郷の海相山本権兵衛の秘書官となり,以後海軍薩摩閥の一員としてエリートコースを歩んだ。42年第1艦隊参謀長へ就任,以後軍務局長,海軍兵学校校長,舞鶴鎮守府長官などを歴任し,大正9(1920)年大将へ昇進,教育本部長となった。<参考文献>荒田道明『野間口海軍大将小伝』

(山崎有恒)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「野間口兼雄」の解説

野間口兼雄 のまぐち-かねお

1866-1943 明治-大正時代軍人
慶応2年2月14日生まれ。日清(にっしん)戦争には西海艦隊参謀として従軍。山本権兵衛海相秘書官,海軍兵学校校長,教育本部長などをへて,大正12年横須賀鎮守府司令長官となる。海軍大将。昭和18年12月24日死去。78歳。薩摩(さつま)(鹿児島県)出身。海軍大学校卒。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「野間口兼雄」の解説

野間口 兼雄 (のまぐち かねお)

生年月日:1866年2月14日
明治時代;大正時代の海軍軍人。大将;教育本部長
1943年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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