仙台湾のほぼ中央に位置して、松島湾はひときわ深く陸地に入込み、大小二〇〇有余の島々をそのうちに散在させている。
特別名勝松島の指定範囲は、
松島の景勝地形、さらには松島湾自体の成因については、地学による種々の解説がある。しかし、松島丘陵の末端部分が複雑な経過で海底に沈下して、その頂峰部分が現在島の形で残った。しかもその外縁部に比して、松島海岸―塩竈港を結ぶ沿岸筋の沈降がさらに進んだため、宮戸島・寒風沢島・野々島・桂島と比較的大型の島々が外側に残り、その内側に沿岸筋の水路が松島内湾と塩竈浦を結んで通じ、松島群島をそこに点在させるに至ったとする点では各説ほぼ一致している。そして松島の奇勝の成因にはおおむね、その母胎をなす松島丘陵末端部の特異な地質と複雑な地相、とくに多くの断層面の存在とその沈降と隆起の複雑な周期的変動をあげている。
「まつしまやをじまのいそにあさりせしあまのそでこそかくはぬれしか」(後拾遺集)、長保年間(九九九―一〇〇四)陸奥在住中に客死した源重之の詠歌をはじめ、松島の名称は平安期の歌集にまずあらわれ、やがて歌枕となった。中世以後には松島紀行の類も幾つかあり、さらに近世に及んでは詩歌・俳句に紀行文に、その名がまさに氾濫する。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
宮城県中東部の松島湾一帯を示す通称で、安芸(あき)(広島県)の宮島(厳島(いつくしま))、丹後(たんご)(京都府)の天橋立(あまのはしだて)とともに「日本三景」の一つに数えられ、また特別名勝に指定されている。松島という地名は古代の記録に現れている。しかし、中世以前には松島湾の南西端にある塩竈の浦(しおがまのうら)(千賀の浦(ちかのうら))が歌に詠まれてはいたが、松島湾全体の風景はあまり知られてはいなかった。仙台藩祖伊達政宗(だてまさむね)による瑞巌寺(ずいがんじ)の再興後、ようやく知られるようになる。松島の風景を全国的に紹介したのは、1669年(寛文9)に訪れた伊勢(いせ)の俳人大淀三千風(おおよどみちかぜ)の『松島眺望集』で、その後、1689年(元禄2)に松尾芭蕉(ばしょう)が訪れ『おくのほそ道』のなかで最大級の賛辞を記している。日本三景の一つにあげられたのは、儒学者林鵞峰(がほう)が1714年(正徳4)に『日本事跡考』のなかに「三処の奇観」の一つとして述べたことに起因するという。
近世には松島海岸の西にある長老坂により仙台と連絡していた。1890年(明治23)松島海岸の北約3キロメートルに東北線松島駅が開業し、さらに、1927年(昭和2)宮城電鉄松島公園駅(現在JR仙石(せんせき)線松島海岸駅)が開設されてから多くの観光客を集めるようになった。観光地松島は、文化財のある松島町の海岸部と、大小の島がある松島湾とに分けられる。瑞巌寺は松島海岸の観光船発着場の正面にある。838年(承和5)慈覚(じかく)大師円仁(えんにん)が創建。その後衰微していたが、1609年(慶長14)に伊達政宗が再建し瑞巌円福禅寺と改称した。本堂、庫裡(くり)は後期桃山建築の様式をよく伝える国宝建造物である。その後も、陽徳院、円通院、天麟(てんりん)院など伊達家ゆかりの寺院が建てられた。陽徳院は政宗の正室愛(めご)姫の菩提寺で、愛姫の霊廟である陽徳院霊屋は国指定重要文化財。そのほかに、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の造営と伝えられる毘沙門(びしゃもん)堂を、のちに五大明王像を安置し政宗のときに修理した五大堂、仙台藩主の納涼と観月のための観瀾亭(かんらんてい)(松島博物館を併設)、僧頼賢(らいけん)の碑(国の重要文化財)のある雄島(おしま)などがある。松島湾内には大小260余といわれる島があり、クロマツ、アカマツが茂り、凝灰岩質の島は波に削られ、仁王島、よろい島などの奇勝を呈する。湾内を巡る定期観光船が就航しているが、高所からの展望もよく、宮戸(みやと)島の大高森(おおたかもり)(106メートル)の壮観、北東部の富山(とみやま)(117メートル)の麗観、北西部の扇谷(おうぎがやつ)山(70メートル)の幽観、南西部の多聞山(たもんざん)(56メートル)の偉観は、「松島四大観」と称される。大高森の頂上からは、奥羽山脈、北上(きたかみ)山系、福島県相馬(そうま)地方までを眺望することができる。四季を問わず観光客が多く、8月の盆には灯篭(とうろう)流しと花火大会が行われる。なお、外洋に面した嵯峨渓(さがけい)付近の海岸は奥松島とよばれている。
[後藤雄二]
宮城県中東部、宮城郡の町。松島湾北西岸に位置する。1928年(昭和3)町制施行。JR東北本線と仙石(せんせき)線、国道45号、346号、三陸自動車道が通じ、松島大郷(おおさと)、松島北の各インターチェンジがあるほか、松島パノラマラインが通じる。江戸時代に品井沼(しないぬま)干拓のためつくられた人工河川の高城川(たかぎがわ)が南流し、河口の高城は仙台藩政期から塩田、宿場町として繁栄、現在は町役場が置かれている。その東の手樽湾(てたるわん)は1968年(昭和43)に干拓が完成し、1102ヘクタールの水田が造成された。米作のほか、畜産や施設園芸が行われている。松島湾ではノリやカキ、アサリの養殖が盛ん。松島海岸は日本三景の一つ特別名勝松島の中心で、国宝、重要文化財を多く有する瑞巌寺(ずいがんじ)をはじめ多くの名所があり、観光客が絶えない。国指定史跡に西の浜貝塚がある。面積53.56平方キロメートル、人口1万3323(2020)。
[境田清隆]
〔東日本大震災〕2011年(平成23)の東日本大震災では、湾内の島々に守られ津波の最大高が4メートル弱と、周辺市町村に比べて低かったとはいえ、死者7人、住家全壊221棟・半壊1785棟を数えた(消防庁災害対策本部「平成23年東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)について(第159報)」平成31年3月8日)。基幹産業である観光業をみると、2015年度の観光客入込数は272万7000人、うち宿泊者数65万5000人で、震災前の2009年度の数値(観光客入込数368万6000人、うち宿泊者数67万9000人)を取り戻すにはいたっていない(松島町統計資料)。
[編集部 2019年10月18日]
『『松島町誌』(1960・松島町)』▽『『松島町史』全4巻(1989~1991・松島町)』
熊本県南西部、天草上島(あまくさかみしま)の北東部を占める天草郡にあった旧町名(松島町(まち))。現在は上天草市(かみあまくさし)の北部を占める地域。旧松島町は1956年(昭和31)町制施行。2004年(平成16)大矢野(おおやの)、姫戸(ひめど)、龍ヶ岳(りゅうがたけ)の3町と合併、上天草市となる。旧町名は、眺望が日本三景、宮城県の松島に似ていることに由来する。旧町域は、国道266号、324号が通じる天草上島東北部を主として大小約30の島々からなる。全体に山頂高度の異なる小地塊山地からなり、平地は合津(あいつ)港から松の本峠までの国道324号沿いと、倉江川の本・支流沿いに樹枝状にみられるだけである。このため、農業はその耕地の半分近くを棚田や段々畑に依存している。米、麦、サツマイモ、養蚕、葉タバコ、イグサなどが伝統的な農作物であったが、天草五橋開通(1966)で、大矢野島経由で九州本土と結ばれて以降はミカン、花卉(かき)の栽培が急速に拡大した。また架橋の影響は漁業にも現れ、タイ、ハマチ、クルマエビなどの養殖が飛躍的に伸びたほか、電機、精密機器などの工場も労働力を求めて進出してきた。国道266号と324号の接点にある合津は松島観光の玄関口で、同港からは八代(やつしろ)港へフェリーが出ている。かつて県下第一を誇った海運業は衰えた。養殖真珠は、合津石とともに土産(みやげ)物店の主役である。大戸鼻古墳群(おおとばなこふんぐん)は県史跡。
[山口守人]
長崎県西彼杵半島(にしそのぎはんとう)の西方海上の島。西海市(さいかいし)に属する。もとは西彼杵郡大瀬戸(おおせと)町に属していたが、2005年(平成17)大瀬戸町の西海町ほかとの合併により西海市域となった。面積6.38平方キロメートル。寛文(かんぶん)年間(1661~1673)大村(おおむら)藩の深沢儀太夫(ふかざわぎだゆう)がここで捕鯨業を始め、西海捕鯨の基地として栄えた。明治以後は海底炭田の島として発展し人口も1万を数えたが、1934年(昭和9)鉱内の水没(海水浸入の事故)によって閉山し、島の荒廃が著しかった。1973年(昭和48)電源開発株式会社によって松島火力発電所(総出力100万キロワット)が建設され、1981年の運転開始当時は、海外炭を主燃料とするわが国最大の石炭専焼火力発電所であった。人口635(2009)。
[石井泰義]
宮城県中部,仙台湾の支湾松島湾の沿岸部および松島湾に散在する島嶼(とうしよ)群の総称。日本三景の一つで,特別名勝。松島丘陵の南東部が,沈水して形成された湾入が松島湾で,沿岸は海食台地の隆起した比較的平たんな丘陵となり,沈水部の高所は段丘地形をもつ大小260余の島々や屈曲の多い岬となっている。これらは南東~北西方向の断層・褶曲系に支配されて規則的配列を示している。第三紀の凝灰岩,砂岩,レキ岩,泥板岩などからなる島のうち60余島にはクロマツ,アカマツが繁り,千貫島,兜(かぶと)島,仁王島など垂直の断面や水平の縞模様,波形の海食崖など特殊な海食地形を示す。沿岸付近の丘陵からの眺望がよく,大高森(105m。宮戸島),富山(124m),扇谷,多聞(たもん)山(50m)は松島四大観(壮観,麗観,幽観,偉観)と称される。
海岸付近には史跡が多く,1609年(慶長14)に再建され,国宝・重要文化財の多い伊達家の菩提寺瑞巌(ずいがん)寺,藩主の観月の場となり〈月見の御殿〉と呼ばれた観瀾亭,坂上田村麻呂の創建と伝え,後に伊達政宗が再建した五大堂,円通院霊屋,陽徳院霊屋があり,渡月橋を渡った雄島(千松島)には奥州三古碑の一つといわれる頼賢(らいけん)碑があり,岩壁には卒塔婆の形を彫った跡が多い。松島湾の支湾塩釜湾の奥には奥州一宮の塩竈(しおがま)神社が鎮座する。松島は歌枕としても著名で,源重之の〈まつしまやをじまのいそにあさりせしあまのそでこそかくはぬれしか〉(《後拾遺集》),藤原俊成の〈立ちかへり又もきて見む松しまやをじまのとまや浪にあらすな〉(《新古今集》)などの歌があり,芭蕉は〈松嶋は扶桑第一の好風にして,凡洞庭・西湖を恥ず〉〈造化の天工,いづれの人か筆をふるひ詞を尽さむ〉(《おくのほそ道》)と記している。
湾内ではカキ,ノリの養殖が盛んであり,外洋に面する島々の間の5水道は,明治初期には潜ヶ浦(かつぎがうら),寒風沢(さぶさわ),石浜などが汽船の停泊地として栄えた。馬放(まはなし)島,桂島,宮戸島では水産養殖が行われるほか,海水浴場,キャンプ場としてもにぎわう。8月15日には瑞巌寺の大施餓鬼とともに灯籠流しが行われる。東北本線,仙石線が通じ,観光用のパノラマラインもあり,湾内には巡航船,遊覧船の便がある。博物館,水族館,松島タワー(64m)などもある。
執筆者:長谷川 典夫
宮城県中部,宮城郡の町。人口1万5085(2010)。松島丘陵の東部を占め,松島の浮かぶ松島湾に面する。高城(たかぎ)川河口にある高城が中心集落で,近世には宿場町,漁港であった。松島観光の一中心で,伊達氏代々の菩提寺瑞巌(ずいがん)寺,五大堂,観瀾亭や水族館があり,観光船が発着する桟橋の周辺に多くの旅館,みやげ物店が集まる。松島湾ではカキ,ノリの養殖のほか,サケの孵化なども行われている。旧品井沼干拓地と手樽湾干拓地には水田が広がる。JR東北本線,仙石線が通じる。
執筆者:千葉 立也
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…南部は丘陵性山地に囲まれ,東部は八代海,西部は有明海に面し,五つの有人島と25の無人島を含む。北部の大矢野島との間に広がる多島海は天草松島とよばれ,一帯は雲仙天草国立公園に含まれる。天草五橋の終点にあたり,1966年の開通を契機に観光客が急増した。…
…伊那盆地北部に位置し,中央部を南流する天竜川に沿ってJR飯田線,国道153号線,中央自動車道が並行して走る。中心集落の松島は近世,伊那往還の宿駅であった。東部は大部分が山地であるが,西部は天竜川の河岸段丘面で,昭和初期の西天竜疎水の建設によって水田化された。…
…宮城県の松島,京都府の天橋立(あまのはしだて),広島県の厳島(いつくしま)を日本三景と称している。松島や天橋立はすでに平安時代中期までに,京都の貴族たちには広く知られた名勝地で,歌や名所絵のよき題材とされていた。…
※「松島」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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