長崎県大村湾北方、佐世保湾に臨む港湾都市。1902年(明治35)佐世保村が市制施行。1927年(昭和2)日宇(ひう)、佐世(させ)の2村、1938年相浦(あいのうら)町、1942年早岐(はいき)町と大野、中里(なかざと)、皆瀬(かいぜ)の3村、1954年柚木(ゆのき)、黒島の2村、1955年折尾瀬(おりおぜ)、江上(えがみ)、崎針尾(さきはりお)の3村、1958年宮(みや)村をそれぞれ編入した。2001年(平成13)特例市に指定。2005年世知原町(せちばるちょう)、吉井町(よしいまち)を、2006年小佐々町(こさざちょう)、宇久町(うくまち)を、2010年江迎町(えむかえちょう)、鹿町町(しかまちちょう)を編入。2015年施行時特例市(特例市から名称変更)、2016年中核市に移行した。針尾島、黒島、高島なども市域に含まれる。面積426.01平方キロメートル、人口24万3223(2020)。交通はJR佐世保線、大村線、松浦鉄道が通じ、西九州自動車道、国道35号、202号、204号、205号、384号、498号などが走る。また、五島(ごとう)列島航路の基点、九十九島(くじゅうくしま)遊覧の基地でもある。
[石井泰義]
リアス海岸の溺れ谷(おぼれだに)で、天然の良港をなすが、背後に烏帽子(えぼし)岳(568メートル)、弓張(ゆみはり)岳(364メートル)を控え、佐世保川、名切(なきり)川、相浦川が小河谷をなし、沖積地はきわめて狭小。低地の大半は、幕末に造成された播磨(はりま)新田、名切新田や塩田であった。市域の北西部は北松浦半島に切り込んだ江迎湾に面し、九十九島を望む。
[石井泰義]
集落は平戸藩(ひらどはん)に属する半農半漁村をなしていたが、1886年(明治19)第三海軍区鎮守府(ちんじゅふ)の設置、続いて1889年佐世保鎮守府の開庁とともに急激に都市化が進み、村から一躍して市制を施行した。市街地の主要部は江戸末期の干拓地に立地し、軍や港湾の施設は主として、かつての塩田の埋築によって建設された。1898年佐世保線が開通し、市街地は佐世保駅付近まで南下した。1916年(大正5)立神繋船池(たてがみけいせんち)(縦360メートル、横575メートル、水深10メートル)や埠頭(ふとう)の完成で、佐世保港は東洋一の港湾施設を備えた軍港となり、1944年(昭和19)には市の人口は29万を数えた。第二次世界大戦後は佐世保港が海外からの引揚者の受け入れ港となったが、鎮守府の解体で人口は半減した。そのため平和産業としての工業、貿易、漁業基地の都市へと脱皮を図ったが、1950年の朝鮮戦争でアメリカ軍基地は強化され、さらに自衛隊基地となり、ふたたび軍事的色彩を帯びるようになった。市の経済は、朝鮮戦争期の特需に支えられて再生し、旧海軍工廠(こうしょう)は佐世保重工業(SSK)に受け継がれ、六つのドックで合計100万トンに及ぶタンカーなど大量の造船実績を示した。一時、造船不況にみまわれたが再起し、1997年度(平成9)の実績でも、バルク船(貨物船)中心に18隻、84万6000重量トンをあげた。佐世保港の心臓部をなす立神繋船池は、1万トン級の船舶10隻を同時に横づけでき、岸壁には250トン・クレーンのほか4基の起重機を有するが、アメリカ軍の使用が主となっている。港湾は、アメリカ軍への提供水域が多く自由水域が少ないため、民間利用の岸壁は万津(よろづ)、塩浜(しおはま)の佐世保駅裏岸壁および干尽(ひづくし)、鯨瀬(くじらせ)、前畑(まえはた)、尼潟(あまがた)の岸壁で、いずれも佐世保湾の東岸に限られ、駅裏岸壁には、魚市場や倉庫が付設され、市営桟橋は離島航路のターミナルをなしている。前畑岸壁は外国貿易のほか内国貿易も行う。2014年には7万トン級のクルーズ船が接岸可能な三浦岸壁が完成した。また、干尽の旧防衛隊跡には海上自衛隊が置かれている。アメリカ原子力潜水艦や、原子力空母エンタープライズの入港(1968)や、原子力船「むつ」の修理入港(1978)をめぐって全国の注目を浴びた所でもある。
市街地の発展は、鎮守府の置かれた当初、元(もと)町、相生(あいおい)町、天満(てんま)町、松浦町一帯だけに民間人の建築が許可されたので、この一帯に店舗が発生した。当初の住宅地では、弓張岳東麓(とうろく)の日当りのよい高燥な斜面の大久保町から石坂町に将校住宅、祇園(ぎおん)町から光月(こうげつ)町の丘陵地に下士官住宅、海軍工廠近くの金比良(こんぴら)町から今福(いまぶく)町に工員住宅を指定、階級による住宅地の分化が発生していた。市の発展とともに、市街地の中心は元町地区から浜田地区へ、さらに下京(しもきょう)、上京、本島(もとしま)、島瀬(しまのせ)の四ヶ町(よんかちょう)へと海岸に向かって移動している。四ヶ町に隣接する常盤(ときわ)町、湊(みなと)町は、朝鮮戦争が起こった1950年ごろにはバーやキャバレーが多く、基地の街の様相を呈した。戦後の復興は、工業の発展、人口の増加に端的に現れ、工場や住宅地が郊外へ団地型式で南北両方向に拡張した。南の方向では沖新(おきしん)工業団地、十郎原(じゅうろうばる)住宅団地、早岐地区には大塔(だいとう)工業団地、広田工業団地、花高(はなたか)住宅団地、北の方向では、石炭積出し港の機能を失った相浦地区の真申(まさる)に火力発電所のほか真申工業団地ができ、炭鉱を閉山した中北部の柚木地区には住宅団地が形成された。三川内(みかわち)地区は古くからの伝統的陶磁器の産地である。炭坑が閉山されてからの鹿町地区などでは鉱業にかわる農水産業が伸び、ミカン園や畜産業の増大と真珠養殖、ハマチ・タイの養殖やワカメなどの浅海養殖が進展した。
[石井泰義]
西海国立公園(さいかいこくりつこうえん)に含まれる烏帽子岳や弓張岳や港外に展開する南九十九島の多島海は代表的景勝地。ほかに針尾瀬戸に架けられた西海橋や西方海上に浮かぶキリシタンの島、黒島がある。市街地には東山公園(旧海軍墓地)、空海が建立したと伝える清岩寺(せいがんじ)(福石観音)がある。1992年(平成4)針尾島に日本有数のテーマパークのハウステンボスが開業。相浦川左岸の丘陵斜面にある縄文草創期の洞窟(どうくつ)住居跡の泉福寺(せんぷくじ)洞窟は国指定史跡。文化施設には、石岳中腹の西海国立公園九十九島動植物園(愛称、森きらら)、旧海軍の歴史資料を展示する海上自衛隊佐世保史料館(セイルタワー)がある。江迎地区には潜竜ヶ滝(せんりゅうがたき)や高岩の景勝地がある。北西部の目暗ヶ原(めくらがはら)は九十九島、平戸島への眺望絶佳の地で、褥崎(しとねざき)は1868年(明治1)五島(ごとう)崩れで五島から逃れた人たちのキリシタン集落である。大野台支石墓群は国指定史跡。また木場浮立(こばふりゅう)は県指定無形民俗文化財であり、亀山八幡宮の秋の大祭「佐世保くんち」も有名。
[石井泰義]
〔世界遺産の登録〕黒島の集落は、2018年(平成30)、ユネスコ(国連教育科学文化機関)により「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産として、世界遺産(文化遺産)に登録された。
[編集部 2018年9月19日]
『『佐世保市史 第1~第5巻』(1953~1957・佐世保市/複製・1982・国書刊行会)』▽『『佐世保郷土誌――歴史編』(1964・佐世保市教育研究所)』▽『吉富一著『佐世保及近郊地形誌』(1965・隆文社)』▽『『佐世保のあゆみ』(1968・佐世保市郷土研究所)』
長崎県北部の市。2005年4月旧佐世保市が世知原(せちばる)町と吉井(よしい)町を編入して成立した。06年3月宇久(うく)町と小佐々(こさざ)町を,さらに10年3月江迎(えむかえ)町と鹿町(しかまち)町を編入した。人口26万1101(2010)。
佐世保市所属の島。五島列島北端にある。面積25km2。五島氏の先祖,宇久氏の最初の拠点で,近世は五島藩に属したが,属島の寺島,前小島とともに北松浦郡宇久町(人口3239。2005)をなした。宇久町は1955年平町と神浦村が合体,改称。鐘状火山の城ヶ岳(259m)を中心に,なだらかなすそ野が広がる火山島である。東岸の平港は江戸時代アワビ採取権を許されていた海士アマンシュ集団の港町だったところで,今は島の中心集落をなし,佐世保と結ぶフェリーの波止場がある。おもな産業は,肉用牛の飼養,米作などの農業と,レンコダイなどの一本釣りやアワビの増殖など。
執筆者:竹内 清文
佐世保市北端の旧町。旧北松浦郡所属。人口5922(2005)。北松浦半島のほぼ中央に位置し,北は松浦市に接する。江迎川本支流沿いにわずかの沖積低地があるほかは丘陵地が大部分である。江迎川両岸の第三紀層は良質の石炭産地で,昭和初期,北松炭田の一角として石炭採掘が始まり,炭鉱町として発展したが,第2次世界大戦後の石炭産業の凋落(ちようらく)とともに閉山が続き,1967年にはすべて閉山され,一時は2万人近くに達した人口も急減した。その後,工場誘致に努め,繊維などの工場の立地をみたが,石炭にかわる地位にまでは達していない。東部の鷲尾岳付近は北松型といわれる地すべり地帯。農業は畜産,米作,メロンなどのハウス園芸を主体とする。丘陵部にある白岳高原,潜竜ヶ滝などは北松県立自然公園に指定されている。松浦鉄道,国道204号線が通る。
佐世保市北西部の旧町。旧北松浦郡所属。人口6982(2005)。北松浦半島の南西部に位置する。明治中期より北松炭田の一角として炭鉱が開発され,第2次世界大戦後も炭鉱の町として発展し,町制を施行した1950年には人口1万5000人を数えた。しかし炭鉱の閉山に伴い,人口も激減した。70年代に入り,楠泊を中心にいりこ(煮干し)の乾燥機加工が始まると漁業が飛躍的に発展し,町の基幹産業となった。現在はタイ,ブリなどの養殖漁業も行われる。沿岸一帯に浮かぶ島々は北九十九島と呼ばれ,西海国立公園に含まれる。
執筆者:松橋 公治
佐世保市中南部の旧市。北松浦半島の南端部およびその沖合いの高島,黒島をも含み,佐世保湾に臨む港湾都市。人口24万0838(2000)。溺れ谷の佐世保湾は広い湾入をつくり,水深は大で,巨大な艦船の停泊に適している上に,湾口は狭く,軍港としての優れた条件を備えている。綿密な調査の後,1886年人口4050人の一寒村であった佐世保村に海軍鎮守府が設置された。鎮守府,軍港,そして都市の建設が急速に進められ,1902年には町制をこえて一挙に市制がしかれた。あいつぐ戦争とともに発展を続け,第2次世界大戦末期には推定人口30万人に達した。しかし大空襲により中心部の大半を焼失し,加えて終戦によって海軍を失い,人口は14万人台に減少した。戦後は軍港都市から工業,貿易,漁業を基幹産業とする都市へと姿を変えたが,50年の朝鮮戦争の勃発によるアメリカ軍基地の強化,そして自衛隊基地の設置によって,軍事基地の性格を再び濃くした。旧海軍工厰の施設を引きついだ佐世保重工は,大型タンカーの建造ブームにより74年には業績のピークを記録し,市の中核産業となった。繁華街は島瀬(しまのせ)町を中心とする地域にあり,デパートや専門店などが立ち並び,その商圏は県北部一帯はもちろん,佐賀県西部におよんでいる。中心商店街に接する港町付近には,朝鮮戦争当時のなごりをとどめ,バーやキャバレーが集まる。しかしアメリカ軍基地の縮小,石油ショック以降の造船業の不振などにより,繁華街は大きな痛手を受けている。JR佐世保線と松浦鉄道線が分岐する。佐世保駅裏の海岸には魚市場や青果市場があり,万津(よろづ)町には市営桟橋があって,五島列島や蠣ノ浦(かきのうら)島・大島へ通う定期船の乗降客でにぎわう。1955年佐世保港外の九十九島や烏帽子(えぼし)岳,弓張岳などが西海国立公園の一部に指定され,92年には市南東部の大村湾岸にオランダの町並みを再現したハウステンボス〈(森の家の意)〉というテーマパークが誕生した。これによって,佐世保市を訪れる観光客は急増し,長崎市の客数を上まわるほどである。市西部の相浦(あいのうら)はかつての石炭積出港で,現在は九州電力の火力発電所(最大出力87.5万kW)や県立国際経済大学(現,長崎県立大学)がある。東部の三川内(みかわち)には,唐子(からこ)の絵柄で知られる三川内焼の窯元が集まる。
執筆者:竹内 清文
佐世保市北西端の旧町。旧北松浦郡所属。古くは鹿町(ししまち)と呼んだが,1958年現名に改称。人口5390(2005)。北松浦半島の西部に位置し,西海岸は典型的なリアス海岸となっている。江戸時代から石炭の採掘がはじめられ,明治以降は強粘結炭を産する北松炭田の中心地として発展したが,1950年代から閉山が相次ぎ,1963年にはすべて閉山に追いこまれた。最盛期には2万人をこえた人口も激減し,その後は工場誘致やミカン・ビワ栽培,畜産などの農業開発,魚類,真珠の養殖などで回復を図っている。西岸には歌ヶ浦を中心とする北九十九島があり,西海国立公園に含まれる。鹿町港は天然の良港。
佐世保市北東部の旧町。旧北松浦郡所属。人口4243(2000)。北松浦半島の中央部に位置し,南は旧佐世保市,北は松浦市,東は佐賀県に接する。東部は県境の国見山(776m)に連なる山地で,佐々川が中央を西流し,盆地を形成する。明治中期に炭鉱が開発され,一時は5鉱が操業する石炭の町として栄えたが,1960年代に閉山が相次ぎ,70年に完全に閉山された。県下では雲仙に次ぐ高冷地であり,年間降水量が多いことなどの条件を生かして,林業,果樹栽培,畜産などが行われる。特に茶は世知原茶として広く知られる。長田代や北川内は北松型地すべり地帯である。
佐世保市北部の旧町。旧北松浦郡所属。人口6151(2000)。北松浦半島のほぼ中央に位置し,南は旧佐世保市,北は松浦市に隣接する。松浦鉄道線と国道204号線が通る。南部と北部は低い山地で,中央部を佐々川が西流し,川沿いに沖積低地が広がる。明治中期に佐世保炭田(北松炭田)の採掘が始まり,最盛期には18の鉱山があって石炭の町として栄えた。その後,炭鉱は衰退し,1970年にはすべての鉱山が閉山して人口も急減した。現在は農業が主産業で,施設園芸,畜産,ミカン,イチゴ,メロンの栽培が盛んである。炭鉱跡地には工業団地が造成され,工場誘致も進んだ。福井洞穴(史)は旧石器時代から縄文・弥生時代に至る複合遺跡として知られる。御橋(おはし)観音は行基の開山と伝えられ,境内にはシダ植物の群落(天)がある。樽川内(たるごうち),高峰は地すべり地帯である。
執筆者:松橋 公治
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
…長崎県では豊富な石炭をもちながら,石炭型工業を形成することはできなかったが,軍需と結合した造船業が成立し発展した。幕末にできた長崎熔鉄所を起源とする三菱重工長崎造船所と,旧海軍工廠を引きつぐ佐世保重工佐世保造船所がそれである。第2次大戦後,大型オイルタンカーの建造によって成長をとげ,一時は両者で県の製造品出荷額の50%内外を占めていた。…
※「佐世保」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新