金城公主(読み)きんじょうこうしゅ(英語表記)Jīn chéng gōng zhǔ

改訂新版 世界大百科事典 「金城公主」の意味・わかりやすい解説

金城公主 (きんじょうこうしゅ)
Jīn chéng gōng zhǔ
生没年:?-739

唐の中宗の甥雍王守礼の女。710年当時7歳のチベット王ティデ・ツクツェン(704-754)の妃として遣わされた。739年に没するまで両国の和平樹立につとめ,一時的に成功した。730-736年ころは仏教道教,儒教その他の学問が伝えられ,仏教の本格的導入を準備した。チベットの伝承ではティソン・デツェン王(742-797)の母とされるが,文成公主伝記から誤り伝えられたものである。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「金城公主」の意味・わかりやすい解説

金城公主
きんじょうこうしゅ
Jin-cheng-gongzhu; Chin-ch`êng-kung-chu

[生]?
[没]739
雍王守礼の娘であったが,唐の中宗の娘として 710年当時7歳の吐蕃王ティデツクツェンに嫁した。終生唐蕃和親のために努力を重ね,儒・仏・道教の教えや学問の移入にも貢献した。晩年には仏教の本格的導入の準備時代を指導した様子である。チベットの史書では文成公主と混同した伝記が伝えられている。

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世界大百科事典(旧版)内の金城公主の言及

【ラマ教】より


【歴史】
 チベット人が仏教と接触したのは,ソンツェン・ガンポ王の晩年,唐とネパールから迎えられた王妃がそれぞれ,ラモチェ(小招寺),トゥルナン(大招寺)の2寺を建立したのに始まる。崇仏の習慣は王室に残され,710年にこの国に至った金城公主の影響でさらに盛んになった。その夫である王の晩年,タクマルに2寺が建てられ,仏教を学ぶために若者が数人唐に遣わされて成都浄衆寺の金和尚(無相)から禅の教えを受けて帰国したといわれる。…

※「金城公主」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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