山口(読み)やまぐち

精選版 日本国語大辞典 「山口」の意味・読み・例文・類語

やま‐ぐち【山口】

[1] 〘名〙
① 山の登り口。山の入口。麓。
※琴歌譜(9C前)山口振「夜万久知(ヤマグチ) 大菅原を 牛は踏む 猪は踏むともよ 民な踏みそね」
② 鷹狩りの時、狩りをしようとして先ず狩り場にはいること。また、その所。狩り場への入口。
※大鏡(12C前)六「さて山ぐちいらせ給しほどに、しらせうといひし御鷹の、とりをとりながら」
③ (山かせぎの者が、山への入口で、その日の獲ものの有無を直感するというところから) 物事のきざし。兆候。前ぶれ。
※蜻蛉(974頃)上「いちじるき山ぐちならばここながら神のけしきをみせよとぞおもふ」
④ 樵(きこり)が山の木を伐り始めること。
[2]
[一] 山口県中央部の地名。県庁所在地。延文年間(一三五六‐六一)大内弘世が京都に模した市街を建設し、大内氏の隆盛とともに繁栄。江戸末期に毛利氏の藩庁が置かれた。常栄寺庭園瑠璃光寺五重塔(国宝)、洞春寺観音堂、ザビエル記念聖堂、湯田温泉などがある。昭和四年(一九二九)市制。

やまぐち【山口】

姓氏の一つ。

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デジタル大辞泉 「山口」の意味・読み・例文・類語

やまぐち【山口】[姓氏]

姓氏の一。
[補説]「山口」姓の人物
山口薫やまぐちかおる
山口勝弘やまぐちかつひろ
山口華楊やまぐちかよう
山口やまぐちシヅエ
山口誓子やまぐちせいし
山口青邨やまぐちせいそん
山口素堂やまぐちそどう
山口長男やまぐちたけお
山口瞳やまぐちひとみ
山口蓬春やまぐちほうしゅん
山口昌男やまぐちまさお
山口洋子やまぐちようこ
山口淑子やまぐちよしこ

やまぐち【山口】[地名]

中国地方西部の県。もとの長門ながと周防すおうの2国にあたる。人口145.1万(2010)。
山口県中央部の市。県庁所在地。中世、大内氏が京都を模した町を建設し発展。幕末にから毛利氏の藩庁が移された。常栄寺庭園・瑠璃光寺などの史跡や湯田温泉がある。平成17年(2005)に徳地町・秋穂あいお町・小郡おごおり町・阿知須あじす町と合併。平成22年(2010)に阿東町を編入。人口19.7万(2010)。

やま‐ぐち【山口】

山の登り口。山への入り口。
鷹狩たかがりで、まず狩り場に入ること。また、その所。
「―入らせ給ひしほどに、しらせうといひし御鷹の、鳥を取りながら」〈大鏡・道長下〉
《猟師が山の入り口で、獲物の有無を直感するというところから》物事のきざし。兆候。
「いちじるき―ならばここながら神のけしきを見せよとぞ思ふ」〈かげろふ・上〉

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改訂新版 世界大百科事典 「山口」の意味・わかりやすい解説

山口[県] (やまぐち)

基本情報
面積=6113.95km2(全国23位) 
人口(2010)=145万1338人(全国25位) 
人口密度(2010)=237.4人/km2(全国28位) 
市町村(2011.10)=13市6町0村 
県庁所在地=山口市(人口=19万6628人) 
県花ナツミカン 
県木=マカマツ 
県鳥=ナベヅル

中国地方の最西部を占め,北は日本海,西は響灘,南は瀬戸内海に臨む県。

山口県はかつての周防,長門の2国に当たり,幕末には長州藩(山口藩)とその支藩である徳山藩岩国藩,清末藩,長府藩(1869年豊浦(とよら)藩と改称)の5藩があった。1871年(明治4)6月徳山藩は山口藩と合併し,同年7月の廃藩置県の実施により山口,岩国,清末,豊浦の4藩はそれぞれ同名の県となった。つづく同年11月の府県統廃合によって4藩は統合され,現在の県域が確定した。

先縄文時代の遺跡はあまり多いとはいえないが,たとえば美濃ガ浜遺跡(山口市)で縄文時代の遺構,古墳時代の集落に伴う土器製塩址,それに中期の兜山古墳群などとともに,旧石器の包含層が知られている。

 岩田遺跡(熊毛郡平生町)は縄文時代中期~弥生時代の集落址で,ことに晩期のどんぐり類を収納した貯蔵穴群や甕棺墓群など初期農耕の問題にかかわる遺跡としても重要である。島田川流域遺跡群は県東部を流れる島田川流域に分布するが,なかでも天王,岡山,石光の3遺跡(周南市)など弥生時代の高地性集落址が有名。綾羅木郷(あやらぎごう)遺跡(下関市)はおびただしい弥生前期土器や石器を伴って,多数の袋状竪穴群や溝状遺構が検出され,アズキその他の植物遺存体と,珍しい陶塤(とうけん)が出土したことでも知られる。中ノ浜遺跡(下関市)は弥生時代前期~中期初頭の埋葬遺跡。前期前半には土壙墓,前期中葉から末葉には配石墓,前期後半から中期初頭には箱式石棺墓がそれぞれ盛行し,甕棺墓や集骨葬もある。副葬品には細形銅剣,銅戈(どうか)などがある。梶栗浜(かじくりはま)遺跡(下関市)も弥生時代前期末~中期初頭の埋葬遺跡。組合せ箱式石棺が主で,その上に積石や列石を伴う。副葬品には朝鮮半島からの舶載と思われる多鈕細文(たちゆうさいもん)鏡と細形銅剣,それに碧玉製管玉などがある。土井ヶ浜遺跡(下関市)は,これまでに200余体の人骨が出土したこともあって,こうした弥生時代の埋葬遺跡としては最も著名であろう。被葬者の成人男性人骨の身長が縄文人より高く,朝鮮半島南部の住民に近いことが注目されている。東向きの仰臥屈葬や伸展葬で抜歯例も多い。副葬品には弥生土器のほか玉類や貝釧(かいくしろ),指輪などがある。

 竹島古墳(周南市)は古墳時代前期の前方後円墳。舶載の四神四獣鏡や銅鏃などが出土している。白鳥(しらとり)古墳(平生町)は県下最大の前方後円墳で全長125m。埴輪列をもち,神獣鏡や巴形銅器などを副葬する5世紀前半ごろの古墳である。長光寺山古墳山陽小野田市)は全長約62mの前方後円墳で二つの竪穴式石室をもつ。三角縁神獣鏡などの副葬品がある。赤妻古墳(山口市)は高さ約6mの円墳で,かつて墳頂から箱形石棺2,刳抜式舟形石棺1が出土している。各種鏡,玉類などの副葬品がある。見島(みしま)古墳群(萩市)はジーコンボ古墳群とも呼ばれ,約200基の後期の積石塚古墳からなる。柳井茶臼山古墳(柳井市。茶臼山古墳)からは仿製(ぼうせい)の鼉竜(だりゆう)鏡が出土している。

 石城山神籠石(いわきさんこうごいし)(光市)は7世紀ごろの朝鮮式山城。土塁がめぐらされ,門址,水門をもつ(山城)。周防国衙址(防府市)は,方2町の古代地方政庁。周防鋳銭司址(山口市)は平安時代の官営鋳銭所の跡で,工房址,井戸址などの遺構,鋳損じの銭貨,緑釉陶器,木簡等々の遺物が出土した。
周防国 →長門国
執筆者:

本州の最西端に位置し,中国山地の西部を占める山口県は,あまり高い山も広い平野もない低山性の半島県である。北は日本海に面して大陸に近く,南は瀬戸内海をひかえ,関門海峡を隔てて,古代文化の先進地北九州と相対しており,早くから大陸・九州と中央とを結ぶ交通上の要衝であった。弥生時代人骨を出土した土井ヶ浜遺跡,西日本最大級の弥生時代集落址として有名な綾羅木郷(あやらぎごう)遺跡の存在も,この地域の文化が先進的であったことを示している。《日本書紀》に見える仲哀天皇の穴門豊浦(あなととよら)宮は,大和朝廷による九州経略の基地となったところで,下関市長府の忌宮(いみのみや)神社境内がその故地と伝えられている。さらに古代の終焉を告げた源平最後の壇ノ浦合戦の舞台となったのも,下関市の関門海峡であった。室町時代には,山口盆地に本拠をもつ大内氏が朝鮮や中国との貿易によって経済的基盤を築き,中央へも進出したが,この大内氏の繁栄も,防長両国の地理的条件に負うところが大きい。近世になって防長2国を領有した毛利氏は瀬戸内海沿岸の浅海を干拓して農地を開発し,米,塩の増産をすすめ,また内海航路の発達に伴って,赤間関(あかまがせき),三田尻,室積(むろづみ),上関(かみのせき),柳井などの港町が開け,なかでも赤間関(現在の下関)は長崎とともに西日本屈指の商港として繁栄した。

 明治以降,山陽本線の下関までの開通(1901)によって,大陸への西日本の門戸としての地域性を強め,また北九州工業地帯の延長として,下関をはじめ内海沿岸各地に,重化学工業の展開をみた。さらに関門鉄道トンネル(1942)につづいて,第2次大戦後,関門国道トンネル(1958),中国自動車道の関門橋(1973),山陽新幹線の新関門トンネル(1975)が次々に完成して,九州と結ばれ,東西の文化・経済交流の地として発展している。

山口県は中国山地の西部にあたる低山性・丘陵性の地形が大部分を占め,海岸線も沈水性のところが多い。平野も狭小であるが,農業は内海沿岸部の岩国,柳井,下松(くだまつ),防府(ほうふ)などの小三角州や干拓地,内陸の玖珂(くが),鹿野(かの),徳佐,山口など多くの小盆地において,稲作が卓越し,山間地のすみずみまで農業土地利用がゆきとどいている。近郊農業では下関市や宇部市周辺の台地における花卉,野菜の栽培が盛んで,屋代(やしろ)島(周防大島)は山口ミカン,萩市付近はナツミカンの特産地として知られている。全県の農家数は6万3000戸(1995),耕地面積は4万5700ha(1995)で,10年前に比べるとそれぞれ16%程度減少しており,全国傾向と同じように停滞的である。米の生産は19万1700t(1994)で,農業粗生産額の50%を占め,首位である。畜産が乳牛,養鶏を中心に近年伸びてきたものの,まだ農業全体の1/5を占めるにすぎない。林業は私有林が80%を占め,農家の副業としての性質が強く,その経営も零細である。滑山(なめらやま)国有林のアカマツ,錦川上流や阿武川中流のヒノキ,杉やシイタケ,ワサビが知られている。

 三面海をめぐらし,出入りに富む沈水海岸の発達した山口県は,沿岸に多くの漁村が分布する。日本海沿岸は対馬海流に洗われ,漁場条件に恵まれているため,古くから海女漁業や長州藩鯨組の捕鯨業で知られたところで,萩と仙崎(長門市)の漁港を中心としている。一方,瀬戸内海側の漁業は日本海側に比べて兼業が多く,著しく零細なうえ,重化学工業の発展に伴って漁場が狭まったことなどにより,漁獲量は日本海側の1/4(2万3000t。1994)にすぎない。沿岸漁業は年々不振となり,養殖漁業の振興がはかられ,クルマエビやハマチ,タイなどの養殖が秋穂(あいお),仙崎,大島などで行われている。

 山口県を代表する重要な漁港は下関で,全県の漁獲量の1/4はここに水揚げされる。明治以降朝鮮近海に山口県漁民が多く出漁したが,下関漁港はその水揚港として急速に発達した。さらに昭和に入ってからも,捕鯨船や底引網,巻網漁船の基地となり,西日本における重要な水産物の流通拠点となってきた。しかし近年では漁場の遠隔化などが原因となって,市場への水揚量は減少傾向にあり,1994年の2.8万tは5年前の1/2である。かつては西日本随一の規模をほこった下関漁港も,長崎や福岡,境港に比べてその地位はかなり低下している。

山口県の工業は,すでに近世から各地に織物や醸造,陶業などがあり,明治初期にも民間では日本最初のセメントや化学の近代工業が起こっている。県の産業構造が本格的に工業化へ進展したのは,干拓地の多かった内海沿岸に臨海工業が立地した大正期からで,第1次大戦を契機として,下関に造船や金属精錬,宇部・小野田に鉄工,セメント,火薬,製薬,徳山・下松にソーダ,造船,鉄板の諸工場が設置された。さらに昭和に入ってから,海底炭田の開発で知られた宇部・小野田にソーダ,耐火煉瓦,化学,防府に紡績,ゴム,徳山・下松に石油,鋼板,セメント,岩国に人絹,紡績,パルプ,石油など各種の工場が進出した。山口県は瀬戸内工業地域の一中心として急速に発展し,工業生産額も広島・岡山両県をしのぐに至った。第2次大戦後は岩国,徳山,光の旧軍用地に鉄鋼や薬品,石油精製および石油化学の大工場が建設され,とくに全国的にも重要な石油化学コンビナートが形成されている。

 山口県工業の特色は,ソーダ,肥料,薬品などの化学工業,石油精製と石油関連工業,鉄鋼業の3業種による出荷額(1994)が全体の約49%を占め,基幹資源型工業が中心となっていることである。これらの多くが臨海の装置型工業であるため,関連産業が少なく,したがって地域への波及効果が低い体質をもっている。工業の分布は地域的に偏り,内海沿岸に全県の事業所の60%(1994),出荷額の93%が集中し,なかでも徳山市,新南陽市(ともに現,周南市),下松市,光市を含む周南地区が,事業所数は15%であるが,出荷額では39%を占めている。近年,宇部・小野田地区の埋立地に新しく石油化学工業,防府地区の塩田跡地に自動車工業が進出し,下関市長府の海岸埋立地にも新工業団地が形成されつつある。

山陽と山陰の変化に富む海岸線をあわせもつ山口県は,多島海の風光にすぐれた内海沿岸の主要部が瀬戸内海国立公園に含まれ,日本海側の須佐湾から青海(おうみ)島・油谷半島まで海食景観の卓越する沿岸や島嶼が,北長門海岸国定公園となっている。また深山と高原の魅力をもつ県境の寂地山は西中国山地国定公園の一部をなし,日本で最も広い石灰岩台地の秋吉台は日本最大級の鍾乳洞と特異なカルスト景観をもつ国定公園として有名である。これら多彩な自然景観とともに,歴史的・文化的観光資源も多く,とくに中世の大内氏の遺跡と明治維新期の史跡にすぐれたものがある。山口市の瑠璃光寺五重塔や常栄寺の雪舟庭園などは大内文化を代表するもので,市内湯田温泉を宿泊基地として,山口市と秋吉台,萩市,島根県津和野町を結ぶ巡回型観光ルートが形成されている。萩市は近世毛利氏の城下町景観をよく保存し,松下村(しようかそん)塾や萩城跡,伊藤博文旧宅など明治維新期の史跡の多い町である。茶器として全国に知られる萩焼は,萩藩御用窯の伝統を伝えるすぐれた陶芸で,多くの窯元があって,近年は食器,花器,置物など多種の製品がつくられ,山陰の城下町にふさわしい観光産業となっている。県の東端岩国市にある錦帯橋は錦川に架けられたアーチ型5連の木橋で,江戸時代から日本三奇橋の一つとして知られた貴重な文化財であり,錦川の鵜飼いとともに多くの観光客をよんでいる。一方,山口県西端の下関市の関門橋は関門海峡をまたぐ全長1068mの自動車道路橋で,直下の関門国道トンネルや火ノ山公園とともにユニークな観光地となっている。

山口県はその自然条件とそれぞれの地方小都市の生活圏の広がりから,次の4地域に区分される。

(1)県央 県の中央部を占め,面積で37%,人口で38%を有する。山口,防府,周南,下松,光の5市からなる。山口盆地や防府平野,下松平野は古代条里制の遺構が県内で最も広く残っており,開発の古い地方で,現在も県下の重要な稲作地域をほとんど含み,米生産量の40%を占め,県内の水田農業の中心をなす。防府市は周防国府の置かれたところであり,内陸盆地の山口市は中世大内氏の城下町として栄え,近世には衰えたが,明治以降は県庁所在地となって,県の行政・文教の中心として発展してきた。周防灘沿岸には石油化学コンビナートに鉄鋼業や自動車工業も加わって,県工業生産のほぼ半ばをあげている周南5都市があり,重化学工業に特色をもつ県の工業の中核的存在となっている。

(2)県東 県の東部を占め,周東とも呼ばれる地方で,面積で21%,人口で17%を有する。岩国市,柳井市と周辺の町を含む。北半の西中国山地,内陸中央の玖珂盆地と丘陵地帯,南半の周防大島や熊毛半島など地形的に複雑な構成をもち,岩国平野,柳井平野,玖珂盆地のほかは平地に乏しい地方である。岩国市は周防国東端の錦川河口に位置する吉川(きつかわ)氏の城下町として起こり,近世に開発された広い干拓地に,大正以降紡績,パルプなどの大工場が進出し,第2次大戦後いち早く石油化学コンビナートが成立し,工業都市として発達した。アメリカ軍岩国基地をもつ基地の町でもある。屋代島をかかえた柳井市は海陸交通の要地を占め,近世以来製塩と柳井縞で知られた商都として栄えた。近年塩田跡地を利用して工業化が進んでいる。沿岸島嶼は明治以降多くの海外移民を送り出したが,現在は山口ミカンの主産地となっている。

(3)県西 県西部を占め,面積23%,人口38%を有する。下関,宇部,山陽小野田,美祢(みね)の4市からなる。全般に丘陵性の地形で,厚東(ことう)川,厚狭(あさ)川,木屋(こや)川,綾羅木川の河川に小三角州平野と干拓地が発達し,内陸にも船木,厚狭,田部,豊田など小盆地が多い。西部を占める下関市は県内一の都市で,古代から海関として重視された。明治以降,化学,金属,機械の諸工業が起こり,大陸貿易や近海漁業の基地となって,水産商工都市として発達した。宇部市,山陽小野田市はともに海底炭田の開発に伴って一寒村から化学工業を中心とした新興工業都市に成長した。ここには山口宇部空港があって,県の空の玄関口となっている。内陸の美祢市も石灰石と無煙炭の開発によって都市化が始まった鉱業都市で,沿岸の宇部市と結びついて工業化が進んでいる。県西部地域は山陽本線・新幹線,山陰本線,中国自動車道の交通幹線がここに集まり,海底トンネルと高速道路橋で九州と結びつき,交通革命の進行するなかで,大きく変貌しつつある。

(4)県北 県北部を占め,面積19%,人口7%を有する。萩市,長門市と周辺の町からなる。山陰側の日本海に臨む地方で,人口密度が低く,開発の遅れた農漁業地域である。この地方の中心都市萩市は,近世に毛利氏36万石の城下町として発達したが,明治以降は停滞的で工業化も進まず,山陰の水産商業都市にとどまっている。萩は明治維新期の史跡に富む城下町景観をよく保存している観光都市として,全国的に知られている。
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山口[市] (やまぐち)

山口県のほぼ中央部に位置する県庁所在都市。2005年10月旧山口市と秋穂(あいお),阿知須(あじす),小郡(おごおり),徳地(とくじ)の4町が合体して成立し,10年1月阿東(あとう)町を編入した。人口19万6628(2010)。

山口市南端の旧町。周防灘に面する。旧吉敷(よしき)郡所属。人口7941(2000)。町域は半島状をなし,東は大海(おおみ)湾,西は秋穂湾に臨む。中央を南北に山地が走るため町域は二分されている。東側は中世以来長講堂領であった秋穂二島荘に属し,近世には盛んに干拓が行われた地域で穀倉地帯となっている。ミカン,タマネギ,キャベツの栽培が盛んで,ヒューム管,コンクリート製品の製造工場もあり,周防灘沿岸部の山では花コウ岩の採掘が行われている。クルマエビの養殖が盛んで,大海湾には大規模な養殖場が多い。また秋穂湾の塩田跡地には内海栽培漁業センターがあり,養殖・放流用として稚魚を供給している。西部の天田は大村益次郎の生地で屋敷跡に生誕碑がある。
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山口市南西端の旧町。旧吉敷郡所属。人口8823(2000)。椹野(ふしの)川河口の山口湾西岸にあり,宇部台地の北東部を占める。町域の西半は低い丘陵地で,貝殻山に弥生中期の貝塚遺跡がある。中世末には白松庄,近世以後は井関村と称した。1940年阿知須町となり,一時山口市に合併したが,47年分離独立。国道190号,山口宇部有料道路,JR山陽本線,宇部線が通り,工業都市宇部の東隣にあって通勤者の多い地域である。広い台地ではダイコンの栽培が多く〈山口たくあん〉の産地として知られる。阿知須漁港は小型底引網・刺網・釣りの漁船が多く,遠浅の沖合ではノリ養殖が盛んである。西の丘陵地にはラドン含有量の多いラジウム温泉で泉温22℃の阿知須温泉があり,付近はミカン園や牧場として開発され,万年池一帯はゴルフ場となっている。

山口市北部の旧町。旧阿武郡所属。日本海に入る阿武川の上流部を占め,島根県津和野町に接する山間農村地域。1955年嘉年(かね),徳佐,地福,篠生(しのぶ),生雲(いくも)の5村が合体,改称,町制。人口7620(2005)。町役場所在地の徳佐は近世の石州街道に沿う市場町として発達した所で,国道9号,JR山口線が通り,阿武郡東部の中心をなした。県境の野坂火山群による堰塞(えんそく)湖盆だった徳佐盆地は県北部最大の稲作地域であり,果樹栽培や酪農も盛んで,鍋倉のリンゴや長門峡付近のナシは観光農業としても成功している。嘉年は阿武川の源流にある小盆地で県下で最も雪の多い所である。県境に秀麗な山容を見せる十種(とくさ)ヶ峰(989m)は長門の名峰として知られ,山口線に近い船平山とともに中国地方西端のスキー場として人気がある。阿武川中流に長門峡県立自然公園があり,紅葉の季節に観光客が多い。
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山口市南西部の旧町。旧吉敷郡所属。人口2万3107(2000)。椹野川の河口付近の沖積平野を占める。古代~中世は東大寺領椹野荘に属し,早くから開発が進められた。中心の津市(ついち)は山陽道の宿場町で,近世は本陣,天下御物送場番所などが置かれ,小郡宰判の勘場(代官所)もあった。現在も山陽新幹線,JR山陽本線,山口線,宇部線,国道2号,9号線が通じ,中国自動車道小郡インターチェンジもある交通の要衝で,県都山口への西の玄関になっている。椹野川の下流部は古くから干拓が進み,米や野菜の栽培が行われる。弥生時代の中郷遺跡,百谷須恵器窯跡などがある。

山口市東部の旧町。旧佐波郡所属。人口8375(2000)。中国山地にあり,中央部を佐波川が南流する。この地方は鎌倉時代に東大寺再建のための造営用材の採取地に定められ,佐波川上流の山地から多くの用材を奈良へ送ったところで,現在も滑(なめら)国有林など杉,松,ヒノキの造林地が多く,山林が町域の大部分を占める。佐波川沿いでは,米作を中心に野菜や果樹栽培,酪農が行われ,特産にワサビ,シイタケ,ツクネイモ,マツタケがある。佐波川上流には多目的の佐波川ダム(大原湖)があり,1980年には南部に中国自動車道徳地インターチェンジが完成した。野谷石風呂,佐波川関水などの史跡があり,出雲神社には天然記念物のツルマンリョウ自生地がある。
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山口市中南部の旧市で,県庁所在都市。1929年市制。人口14万0447(2000)。瀬戸内海に流入する椹野川の流域とその河口(山口湾)沿岸の平野部を占め,356.9km2に及ぶ県下最大の市域をもつが,水田農村地域を広く含み,人口は全国県庁所在都市の中で最少である。市域は椹野川上・中流の山口盆地を中心とした北部地区と山口湾岸の吉南(きちなん)平野を占める南部地区に分かれる。市街地は山口盆地の北東隅にあって,14世紀後半,大内氏が館を置いて京都を模した街をつくり,約200年間城下町として栄えた。その後,陶(すえ)氏,次いで毛利氏の支配下に置かれたが,近世には萩に毛利氏の本拠が移されたため,山口はさびれた。幕末の1863年(文久3)藩庁が萩から山口に移転して政治中心地として復活し,明治以降も県庁所在地となって発展してきたが,山陽新幹線の小郡駅(現,新山口駅)からJR山口線で約25分の内陸にあり,鉄道幹線から離れているため,近代産業の定着を見ず,行政・文教面の中心機能をもつにすぎない。中心の亀山周辺には,市役所から県庁に至るパークロード沿いに図書館,美術館,博物館,教育会館などの文教施設が並び,旧石州街道沿いの大市,中市,米屋町,道場門前が中心商店街を形成している。市街地の南西端,国道9号沿いの湯田温泉が秋吉台,萩,津和野などへの観光基地となっている。市内にはザビエル記念聖堂,瑠璃光(るりこう)寺五重塔(国宝),八坂神社,常栄寺の雪舟庭園など大内氏時代をしのぶ遺跡が多く,山口祇園祭や七夕ちょうちん祭は異色の夏祭として知られる。一の坂川のゲンジボタルは天然記念物である。市東部の大内に中国自動車道山口インターがあり,南部鋳銭司(すぜんじ)を山陽自動車道が通じる。また,市北部の仁保にはKDDの山口衛星通信所(現,KDDIの山口衛星通信センター)があり,さらに宇宙通信や日本国際通信も進出し,情報通信機能が集積しつつある。

 市の南部地区は名田島(なたじま),江崎,深溝など近世に成立した干拓地が広く,タマネギ,イチゴ,トマトなどの栽培を中心とした近郊農業が盛んで,佐山の台地は山口沢庵用のダイコンの特産地である。周防鋳銭司址のある南東部の鋳銭司には住宅産業の新工場がある。
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山口湾岸,山口盆地に縄文時代の遺跡が若干ある。弥生時代には各所に水田が開け,集落がつくられた。中世都市のつくられた一の坂川流域の扇状地でも弥生時代の土器類が発見されており,耕地と集落が存在したことは明らかである。盆地ではその後条里がつくられ,一の坂川流域も同川のはんらんで変形しているものの,その跡は現在も明らかで,大内氏が京都を模してつくったと伝える山口の町はこの条里遺構に規制された都市である。この地域は律令行政区画としては周防国吉敷郡宇努(うぬ)郷であったと見られ,現在も宇野の地名が残っている。山口の地名は円政寺(現,萩市)の1254年(建長6)の金鼓に刻まれたのが初見であるが,円政寺町の位置から考えて,この時には山への入口という一般名詞からかなりの広がりをもつ地名になっていたとも思われる。山口の町の中心部は石見国へ抜ける石州街道に面した大市,中市,米屋町で,大市と中市の境に直交する竪小路を約400m北上したところに大内氏の館(現,竜福寺)があり,その周辺および南部に家臣の居住区があった。大内氏の館から南西に約2km離れた所に湯田があり,湯治場として利用されていた。これらを核として中世都市山口は形成されており,大内氏家臣の居住区,商工業地区,湯治場,それに大内氏が勧請した今八幡宮,八坂神社,北野天神社,円政寺,平蓮寺,瑠璃光寺,国清寺などの社寺が町内と郊外に立ち並び,近世城下町の原型ともいうべき観を呈していた。

 石州街道に接し,竪小路から峠越えで長門への道,盆地を貫く椹野川から港湾小郡,瀬戸内海への道,故地大内から峠越えで南下する周防国府への道が通じるという条件のもとで,大市,中市などが既にある程度形成されていたのではないかと思われることから,大内氏がこの地を本拠とした理由を想定することができる。また町に対する大内氏の支配は1459年(長禄3)の禁制が初見で,夜間の大路往来,辻相撲,路頭において女をとること,大内氏家臣やその被官が夜に湯田の湯へ入ることを禁止している。1486年(文明18)には薦僧(こもそう),放下(ほうか),猿引を山口およびその近在から追放し,職人でも武家被官でもない者や他国者の山口での止宿禁止,路上での夜の念仏の禁止,巡礼者の止宿期間の制限,異相不審の者への制止など,町への介入がきびしくなっていることがわかる。1551年(天文20)のフランシスコ・ザビエルの書簡によれば,山口は大市街で,みな材木の構家であり,戸数1万以上とあるので,この時の人口は5万~6万を数えたと思われるが,この年8月に陶(すえ)隆房ら大内氏重臣の反乱で大内義隆は自害し,山口の町は8日間にわたって焼けたという。大内氏を継いだ大内義長は,宣教師たちに大道寺の造営を認め,山口に南蛮寺が建立されたが,57年(弘治3)大内氏は毛利氏に滅ぼされ,同時にこの時戸数1万を数えたという山口はふたたび焼亡,中国地方の政治中心としての地位も失った。17世紀初頭の調査で,山口とその周辺をあわせて市屋敷数2702戸とかつての1万戸へはついに回復しなかった。
執筆者:

大内氏の滅亡と戦乱によって町はほとんど焼失した。関ヶ原の敗戦後,防長両国に移封された毛利輝元が萩に築城したため,山口は大内氏時代の繁栄を失い,山間小盆地の町となり,街路も大内氏時代の6間幅から4間幅に狭まった。しかし長州藩が城下町と山陽道を結ぶ萩,山口,三田尻の間を参勤交代の通路(御成道)として重視したため,山口は交通の拠点として復活した。萩街道(御成道)と石州街道が通っていたため,藩は中市,道場門前に本陣を置き,竪小路に宿駅を設けて人馬継立てを行わせた。中河原と湯田には御茶屋(藩の公邸)があり,藩主の休泊所となっていた。長州藩は激動する内外の情勢に備えるため,1863年(文久3)藩庁を山口へ移し,64年(元治1)上宇野令の亀山北方を新藩庁の地と定めて築造に着手した。築造工事は第1次幕長戦争(長州征伐)に敗れたために中断したが,66年(慶応2)藩庁新館が完成した。1863年以後,山口は藩政の中心地となり,明治維新と深いかかわりをもつこととなった。

 1813年(文化10)長州藩は上田鳳陽を儒役に任じ,中河原の御茶屋(公邸)の前に山口講堂を設置して山口在住諸士の教育を開始した。45年(弘化2)同所は山口講習堂と改称し,萩明倫館,三田尻越氏塾に次ぐ学問所となった。60年(万延1)山口講習堂は萩明倫館の直轄となり,翌年中河原から亀山の東麓に移転し,重要な藩の人材養成機関となった。63年藩庁の山口移転後,山口講習堂は山口明倫館と改称し,文学寮と兵学寮をもつ藩校となった。1862年に帰国した村田蔵六(大村益次郎)は兵学寮の教授となり,西洋兵学を教えて優秀な士官を養成した。70年(明治3)山口明倫館は山口中学校と改称し,山口県近代教育の母体となった。
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山口(長野,現岐阜) (やまぐち)

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日本歴史地名大系 「山口」の解説

山口
やまぐち

[現在地名]上田市大字上田

太郎たろう山と東太郎山の間の黄金沢こがねざわの谷口にある扇状地上の集落。近世には山口村とよばれた。東は大久保おおくぼ村、西は房山ぼうやま村、南は染屋そめや村と境をなしている。初め房山村に含まれていたが、承応年間(一六五二―五五)に分村(上田市史)。承応三年の山口村田畑貫高之御帳(「望月文書」上田市立博物館蔵)に上田城築城のあと城下囲として移住を命ぜられた房山村や山口村の原住地であった。「ゑん明寺・六工・古町・向原・和具」などが耕地名となって記されている。寛文八年(一六六八)支郷として蛇沢へびさわ金井かないができた(小県郡年表)

宝永三年(一七〇六)の小県郡房山村指出帳(上田藩村明細帳)には「枝郷山口村」と記されている。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「山口」の意味・わかりやすい解説

山口
やまぐち

長野県南西部、木曽郡(きそぐん)にあった旧村名(山口村(むら))。現在は岐阜県中津川市東部を占める地域。1958年(昭和33)長野県西筑摩郡(にしちくまぐん)神坂村(みさかむら)が中津川市に編入した際、馬籠(まごめ)、峠、荒町(あらまち)の3地区は山口村に編入。山口村は生活圏としては中津川市に属していたため、2005年(平成17)長野県から岐阜県中津川市に越県編入した。旧村域は木曽谷の南端にあり、国道19号(中山道(なかせんどう))が通じ、JR中央本線中津川駅からバス便で結ばれている。気候は温暖で、太い竹の林や茶畑があり、木曽川左岸の傾斜地は水田化している。旧中山道に沿う馬籠は近世の木曽十一宿の馬籠宿で、島崎藤村の出身地として知られる。藤村記念館、島崎家の墓所永昌(えいしょう)寺、清水屋資料館、馬籠脇本陣史料館、東山魁夷(かいい)のリトグラフなどを展示する東山魁夷心の旅路館などがある。

[小林寛義]

『『山口村誌』全2巻(1995・山口村)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「山口」の意味・わかりやすい解説

山口
やまぐち

岐阜県南東部,中津川市南東部の旧村域。以前は長野県に属した。木曾谷の南端,木曾川左岸にあり,気候は太平洋岸型に近い。 1889年長野県山口村として村制。 1958年神坂村の一部を編入。 2005年岐阜県中津川市に編入。主要集落は旧中山道沿いにある。馬籠は近世の宿場景観を残し,島崎藤村の出身地としても知られ,東境の馬籠峠とともに訪れる人が多い。

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旺文社日本史事典 三訂版 「山口」の解説

山口
やまぐち

山口県中央部にある県庁所在地
南北朝時代,大内弘世 (ひろよ) がここに移って以来,大内氏の城下町として発展。応仁の乱(1467〜77)後は戦火を避けた公家・僧侶が多く来住し,ザビエルらの宣教師,雪舟らの画僧・文化人が集まり,小京都といわれた。大内氏滅亡後衰えたが,幕末,毛利氏が萩から移り再び政治の中心地となった。1929年市制施行。

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事典・日本の観光資源 「山口」の解説

山口

(静岡県湖西市)
美しい日本のむら景観100選」指定の観光名所。

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普及版 字通 「山口」の読み・字形・画数・意味

【山口】さんこう

山あい。

字通「山」の項目を見る

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世界大百科事典(旧版)内の山口の言及

【南郷[村]】より

…東西を急峻な山地に囲まれ,中央を北流する只見川上流の伊南(いな)川流域に集落が点在する。中心集落の山口は,只見や田島から奥会津へ向かう沼田街道と田島街道(国道289号線)の分岐点として発達した。就業人口の30%が農林業に従事するが,村域の大部分は山地で国有林が多く,耕地は伊南川沿岸に限られ,しかも冬季の積雪量が170cmにも及ぶため農業条件は厳しいが,生食用の〈南郷トマト〉は首都圏にも出荷されている。…

※「山口」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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