金沢城跡(読み)かなざわじようあと

日本歴史地名大系 「金沢城跡」の解説

金沢城跡
かなざわじようあと

[現在地名]金沢市丸の内・尾山町など

犀川と浅野川に挟まれた小立野こだつの台地の突端部に築かれた平山城跡で、加賀藩前田氏累代の居城。北西は金沢平野から日本海を望み、南東は小立野台地から加越国境の山地を望む。小立野台地は標高五〇―八〇メートル、幅は最大約八〇〇メートル、城地との間は百間ひやくけん堀によって画されており、堀を隔てて兼六けんろく園が広がる。面積は九万一千六三〇坪、うち堀の広さは三万二千一三六坪。

天正八年(一五八〇)織田信長の命を受けた柴田勝家は越前より出軍し、金沢御堂に猛攻撃を加えた。さらに小立野台地より攻め立てた家臣佐久間盛政により、ついに御堂は占領された。盛政は占領後御堂を城郭として造り替え、土累や堀の造成が行われ、西方に正門が建てられたといわれる。信長没後の同一一年、羽柴秀吉は柴田勝家と近江で対決した。盛政は伯父である勝家の軍の総帥として出陣し、賤ヶ岳合戦で敗れ、京都六条ろくじよう河原(現京都市下京区)で処刑された。留守を守っていた盛政の部将は戦わずして降伏し、当城は豊臣秀吉から北陸制圧に功のあった前田利家に与えられた。同年四月、利家は能登の小丸山こまるやま(現七尾市)から移り、明治二年(一八六九)六月版籍奉還、一一月退去に至るまでの約二九〇年間、前田氏の居城となった。城下町を整備したが、従来の金沢の地名を尾山とした。利家没後は再び金沢が使用されるようになる(→金沢城下

〔構成と遺構〕

城内は多くの曲輪に分けられていたが、最高所は本丸跡で、標高約六〇メートル、東西約一五〇メートル、周囲約五七〇メートル。本丸の東部をひがしの丸といい、それより一段低い所を東の丸付壇という。本丸西部の低所を本丸付壇といい、三十間さんじつけん長屋がある。天守は本丸と東の丸の境にあったといわれている(「金沢古蹟志」、「御城中御建物御焼失旧新記帳」後藤文書)。本丸付壇から本丸へ登る入口の正門をてつ門といい、扉を隙間なく鉄板でおおって大きな鋲で打付けてあったが(金沢古蹟志)、寛永八年(一六三一)東の丸の櫓が焼失した際全焼した。東の丸南東隅に辰巳たつみ櫓、北西隅に丑寅うしとら櫓、中ほどになか櫓があり、いずれも百聞堀の高い石垣の上にあった。ほかにも大しのぎ角中櫓・小しのぎ角中櫓などがあったが、これらは宝暦九年(一七五九)に全焼した(同書)。二の丸は標高約五〇メートル、周囲約五三〇メートル、城内ほぼ中央に位置した曲輪で、これより低い所につるの丸・三の丸が続いた。最も低い所はしん丸の標高約三五メートルであった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「金沢城跡」の解説

かなざわじょうあと【金沢城跡】


石川県金沢市丸の内にある近世の城跡。市街地東部、犀川(さいがわ)と浅野川とにはさまれた小立野(こだつの)台地の先端部に立地する。金沢城跡の主要な範囲は、本丸、二ノ丸、三ノ丸、新丸、金谷出丸など総面積約30万m2におよび、櫓(やぐら)を多用した典型的な平山城である。重要文化財の石川門、三十間長屋、土蔵(鶴丸倉庫)などが伝わるほか、大規模な近世城郭としての縄張りと高い技術によって構築された石垣などが良好に残り、近世の大大名の政治権力や築城技術を知るうえで重要である。もともと金沢城は、尾山(御山)御坊と呼ばれ、加賀一向一揆で加賀の支配権を得た浄土真宗本願寺の拠点であり、大坂の石山本願寺大坂御坊)と同様に、石垣をめぐらした城造りの要塞であった。1580年(天正8)、佐久間盛政(もりまさ)がここを攻め落として初めて入城し、城郭整備に着手した。賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い後は、前田利家(としいえ)が城主となり、1631年(寛永8)の大火後の3代藩主利常(としつね)による造営で、現在の城の縄張りがほぼ定まり、加賀百万石金沢藩の居城として明治維新まで続いた。明治期以降は兵部省、陸軍省管轄から金沢大学キャンパスへの変遷を経て、1995年(平成7)の金沢大学移転後、城跡の復元整備が行われ、現在では金沢城公園になっている。2008年(平成20)に国の史跡に指定された。JR北陸本線金沢駅から北鉄バス「兼六園下」下車、徒歩約5分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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