日本歴史地名大系 「金沢城跡」の解説
金沢城跡
かなざわじようあと
犀川と浅野川に挟まれた
天正八年(一五八〇)織田信長の命を受けた柴田勝家は越前より出軍し、金沢御堂に猛攻撃を加えた。さらに小立野台地より攻め立てた家臣佐久間盛政により、ついに御堂は占領された。盛政は占領後御堂を城郭として造り替え、土累や堀の造成が行われ、西方に正門が建てられたといわれる。信長没後の同一一年、羽柴秀吉は柴田勝家と近江で対決した。盛政は伯父である勝家の軍の総帥として出陣し、賤ヶ岳合戦で敗れ、京都
〔構成と遺構〕
城内は多くの曲輪に分けられていたが、最高所は本丸跡で、標高約六〇メートル、東西約一五〇メートル、周囲約五七〇メートル。本丸の東部を
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報