兼六園(読み)ケンロクエン

デジタル大辞泉 「兼六園」の意味・読み・例文・類語

けんろく‐えん〔‐ヱン〕【兼六園】

石川県金沢市にある池泉回遊式庭園。加賀藩主前田侯の庭として延宝年間(1673~1681)ころ造られ、文政年間(1818~1830)に補修。宏大こうだい幽邃ゆうすい・人力・蒼古そうこ・水泉・眺望の六勝を兼ね備えることから名づけられた。岡山の後楽園、水戸の偕楽園かいらくえんとともに日本三名園の一。

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精選版 日本国語大辞典 「兼六園」の意味・読み・例文・類語

けんろく‐えん‥ヱン【兼六園】

  1. 石川県金沢市にある公園。松平定信の命名で、宏大、幽邃(ゆうすい)、人力、蒼古、水泉、眺望の六つを兼ね備えていることにちなむ。岡山の後楽園、水戸の偕楽園とともに日本三名園の一つ。加賀藩主前田侯の庭園で、歴代藩主がほぼ二〇〇年をかけて作庭したと伝えられる。兼六公園。

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日本歴史地名大系 「兼六園」の解説

兼六園
けんろくえん

[現在地名]金沢市兼六町

城下のほぼ中央、小立野おだつの台地突端にある庭園。百間ひやつけん堀を隔てて金沢城郭の南東に位置し、南東は石引いしびき通・小立野に続く。江戸時代の代表的な回遊林泉式の庭園で、国指定特別名勝。茨城県水戸みと市の偕楽かいらく園、岡山市の後楽こうらく園とともに日本三名園の一つとして知られる。面積は約三万五千坪(一〇万七四一平方メートル)。文政五年(一八二二)、一二代藩主前田斉広の懇請によって奥州白河藩主松平定信が命名。宋の李格非著「洛陽名園記」の「園甫の勝、よく兼ね能ざるもの六あり、宏大に務むれば幽少し、人力すぐれば蒼古少し、水泉多ければ眺望難し」からとったという。名園の資格として掲げる宏大・幽・人力・蒼古・水泉・眺望の六勝を兼ね備えた名園という意味である。定信揮毫の扁額(県立美術館蔵)は、百間堀に面した正面の蓮池れんち門に掲げられていた。

当園はもと金沢城に付属した外園・外庭として整備され、北西部の低地(斜面区域)と南東部の高地(平面区域)からなる。金沢城に対した低地部を蓮池庭、小立野に接した高地部を千歳台ちとせだいといい、蓮池庭が拡大発展して今日の兼六園の形となったものである。なお両地域の境界には文政期以前一条の道が通じており、ひろ坂を真っすぐに上って、かすみヶ池の中央を横切りつつ、石川門の正面と尻垂しりたり坂の上とを連絡する道の中央に出たと考えられている(延宝町絵図・加能郷土辞彙)。蓮池庭は、延宝四年(一六七六)五代藩主前田綱紀がひさご池を掘り、前方に江戸えど町御亭の数寄屋を造ったのが始まりとされる。一方、慶長年間(一五九六―一六一五)初頭、二代前田利長が明の儒学者王伯子を招いて蓮池庭に居住させたとして、すでに存在したと推定する説もある。同六年徳川秀忠の女珠姫(のちの天徳院)が利長の世嗣利常に入輿するため下国、御付家老興津内記ほか随従の徒数百人に及んだ。その際内記のみ城内新丸に住し、他は皆、北西区に設けた長屋に住まわせたという。このため同地は江戸町と称せられた。夫人は元和八年(一六二二)没し、随従の者も帰京したので、貸長屋もおそらく荒廃したと思われる。その後この付近は常に一時的に居住する者のために使用されたようで、例えば、彫金工後藤理兵衛程乗が京から下って藩用を勤めた際、やはりここの貸小屋に置かれていたという。程乗が来沢したのは寛永(一六二四―四四)の終り頃であったが、その付近を程乗ていじよう屋敷ということは後年まで伝わっていた(金沢古蹟志)

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改訂新版 世界大百科事典 「兼六園」の意味・わかりやすい解説

兼六園 (けんろくえん)

石川県金沢市の中央部,小立野(こだつの)台地の末端に位置する公園。日本三名園の一つ。もと前田利長の時代からの加賀藩主の庭園で,1676年(延宝4)5代藩主綱紀が整備し,雅宴を催したことが知られるが,1759年(宝暦9)の大火後荒廃した。11代治脩(はるなか)と12代斉広が池の改修,御殿の築造をおこない,1822年(文政5)松平定信(白河楽翁)に園の命名を依頼した。〈兼六園〉とは中国宋の李格非の《洛陽名園記》からとったもので,〈宏大,幽邃(ゆうすい),人力,蒼古,水泉,眺望〉の六勝を兼ねた名園を意味している。1837年(天保8)13代斉泰が霞池を拡大し,山崎山の築山をつくり,ほぼ今日の規模となった。辰巳用水を引き込んだ曲水,賢庭作の三尊石組,池畔の琴柱(ことじ)灯籠や老樹名木などが名高い。1863年(文久3)巽(たつみ)御殿(成巽閣)を建造。明治になって1874年,兼六公園として一般に開放され,1922年名勝に指定された。面積約10万m2
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「兼六園」の意味・わかりやすい解説

兼六園
けんろくえん

石川県金沢市にある加賀百万石の名園。池泉大回遊式総合庭園で、大名庭園の典型的意匠をもつ。最初に作庭された箇所は蓮池庭付近で、前田家第2代藩主利長(としなが)のときである。この庭は、日本庭園のなかでもっとも長い年月をかけて完成したもので、寛永(かんえい)(1624~44)初年から天保(てんぽう)年間(1830~44)まで約200年を費やしている。兼六園の名称は、楽翁松平定信(さだのぶ)が12代斉広(なりなが)の依嘱を受けて命名したもので、宋(そう)の李格非(りかくひ)の『洛陽(らくよう)名園記』の文章に拠(よ)り「宏大、幽邃(ゆうすい)、人力、蒼古(そうこ)、水泉、眺望の六勝をよく兼ね備えている名園」の意である。広さは約3万0500坪(約10万0700平方メートル)、各時代それぞれの意匠様式が残されていてまことにおもしろい。寛永のころは、小堀遠州が園内でもっとも大きい築山(つきやま)である山崎山とその付近の作庭を設計指導し、施工には賢庭(けんてい)があたっている。したがって、付近の三尊石組(いしぐみ)や他の石組、流れの意匠はみごとである。流れには大小二つの中島があり、流れは大池泉(霞(かすみ)ヶ池)に導かれている。名物の徽軫灯籠(ことじどうろう)をはじめ、内橋亭、夕顔亭などの草庵(そうあん)茶室などの見どころもあり、四季の遊園観賞に富んでいる。特別名勝。

[重森完途]


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百科事典マイペディア 「兼六園」の意味・わかりやすい解説

兼六園【けんろくえん】

石川県金沢市,金沢城跡南東部にある池泉回遊式庭園(名勝)。日本三名園の一つ。1819年藩主前田斉広が拡張,面積10万m2で,高所の千歳台,低所の蓮池庭に分かれ,広大,幽邃(ゆうすい),人力,蒼古(そうこ),泉石,眺望の六つを兼ねるとして命名。キクザクラ(天然記念物),成巽(せいそん)閣,金沢神社,県立美術館などがある。→庭園
→関連項目金沢[市]後楽園(岡山)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「兼六園」の意味・わかりやすい解説

兼六園
けんろくえん

石川県金沢市,金沢城跡に隣接する回遊式の林泉大庭園 (→回遊式庭園 ) 。面積約 10万 740m2。水戸の偕楽園,岡山の後楽園とともに日本三名園の一つ。もと加賀藩主前田家の庭園で,文政5 (1822) 年 12代藩主前田斉広の時代に拡張,大改修されて今日の規模と景観になった。このとき松平定信が「宏大,幽邃 (ゆうすい) ,人力,蒼古,水泉,眺望」の六勝を兼ねそなえているとして命名。園内に成巽閣 (せいそんかく) ,石川県立美術館がある。

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事典 日本の地域遺産 「兼六園」の解説

兼六園

(石川県金沢市兼六町1-4)
美しき日本―いちどは訪れたい日本の観光遺産」指定の地域遺産。

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事典・日本の観光資源 「兼六園」の解説

兼六園

(石川県金沢市)
日本の都市公園100選」指定の観光名所。

兼六園

(石川県金沢市)
さくら名所100選」指定の観光名所。

兼六園

(石川県金沢市)
日本三名園」指定の観光名所。

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