釘子村(読み)くぎのこむら

日本歴史地名大系 「釘子村」の解説

釘子村
くぎのこむら

[現在地名]室根村矢越やごし

津谷川つやがわ村の北、有切ありきり峠を越えた北流するおお川沿いにある。東は矢越山(五一九・六メートル)、西は砥石といし山などに囲まれ、北は上折壁かみおりかべ村。往古久喜乃古くきのことよばれていたが、天養年中(一一四四―四五)西行が遊国の際(矢越山)が釘形なので釘山くぎやまと名付け、これにちなみ地名を釘子としたと伝える。またかつては陸奥桃生ものう郡に属していたともされる。古くから砂金・砂鉄の産地で、入の沢いりのさわから流れ出るすみ川は砂金採りのため川が澄んでいることから、にごり(大川)は砂鉄を掘るため常に濁っていたのでつけられた川名という。一五三〇年代頃の熊野山新宮勧進状(熊野速玉大社文書)に「久木子」とみえ、同所の平清親・平宗枝が各々二〇〇文を紀伊熊野新宮に寄進している。元亀二年(一五七一)七月一日には、陸奥栗原くりはら郡での大崎氏との合戦の際、大崎方の青梅尾張守弟藤五郎を討取った賞として、釘子村五千刈の地などが葛西氏から千葉飛騨守に宛行われている(「葛西晴信宛行状写」高田本称寺文書)。「葛西真記録」などには東釘子・西釘子の呼称がみえるから、戦国期には東西に分れていたとも考えられる。

近世初期は仙台藩伊達家一門石川氏の知行地。寛永二一年(一六四四)の石川氏知行目録(石川文書)では六五貫七三八文。松原まつばらに石川氏の屋敷があった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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