日本歴史地名大系 「釣殿院跡」の解説
釣殿院跡
つりどのいんあと
「拾芥抄」に「六条北、東洞院東、号六条院、光孝天皇御所云云、付属淳子内親王」とある。これが方一町であれば現在の
光孝天皇は仁明天皇第三皇子で、藤原総継女沢子を母として天長八年(八三一)当院で生れた(三代実録)。
淳子内親王は、「本朝皇胤紹運録」にはみえず、同書に「三品、配陽成院、号釣殿宮」とある綏子内親王の誤りであろう。綏子内親王は光孝天皇の皇女で元慶八年(八八四)源姓を賜ったが(三代実録)、寛平三年(八九一)内親王となり(一代要記)、延長三年(九二五)落髪(日本紀略)、同年四月二日に没した(同上)。
「釣殿宮」の号は「日本紀略」延喜七年(九〇七)一二月二一日条に「釣殿宮内親王奉賀陽成院四十御算、営仏像経五等」とみえ、「後撰集」には「釣殿のみこに遣はしける」として陽成院の
との歌がある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報