塗師屋町(読み)ぬしやちよう

日本歴史地名大系 「塗師屋町」の解説

塗師屋町
ぬしやちよう

下京区間之町通五条下ル二町目

南北に通る間之町あいのまち通を挟む両側町

平安京条坊では左京六条四坊二保四町の大部分の地にあたり、平安中期以降は、楊梅高倉小路の西。院政期には、白河天皇の六条内裏の地であった(拾芥抄)。南北朝期には、町の東側北方より東隣の富屋とみや町北方にかけては、八坂法観やさかほうかん(現東山区)の所領地であったことが、次の法観寺文書により知られる。


塗師屋町
ぬしやまち

[現在地名]水口町本町ほんまち三丁目

天王てんのう町の北東米屋こめや町西端の石橋いしばしから三筋に分れた往還のうち北裏通を挟んだ両側町。南は米屋町およびひら町の一部と背中合せに接し、北は馬渡まわたり川の溝を挟んで大徳だいとく寺境内。慶長七年(一六〇二)の水口美濃部村検地帳写(水口宿文書)町名がみえる。


塗師屋町
ぬしやちよう

[現在地名]小松市上寺町かみでらまち

本鍛冶屋ほんかじや町の西にある短い南北通りで、その西は本大工ほんだいく町。長さ五七間三尺・幅一間三尺(皇国地誌)。文政一三年(一八三〇)の小松城図ではヌシ町と記される。町名の由来は塗師業者が多く居住したことにより、前田利常在城の頃は城中御用の塗師業者が居住していたという(小松市史)


塗師屋町
ぬしやちよう

[現在地名]堺市甲斐町東かいのちようひがし四丁

本在家ほんざいけ町の東、大道の東七筋目に西面する片側町。元禄二年(一六八九)堺大絵図に「塗師屋町」とあり、一〇筆の宅地からなり、町会所は中央に所在。同六年以前の四辻制下では北本郷付町分(同八年堺手鑑)、南北二組制以降は北組東筋分に所属(堺市史)


塗師屋町
ぬしやちよう

中京区車屋町通押小路下ル

南北を通る車屋町くるまやちよう通を挟む両側町。平安京の条坊では、左京三条三坊四保一五町の中央にあたる。

町名は、寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「塗師屋丁」とあり、それ以降変化はない。寛文五年(一六六五)刊「京雀」に「此町両行共に堅地塗師也」とあり、塗師が多く居住したことによる町名と思われる。


塗師屋町
ぬしやちよう

下京区富小路通綾小路下ル

南北に通る富小路通を挟む両側町。

平安京の条坊では左京五条四坊三保一一町にあたり、平安時代中期以降は綾小路富小路あやのこうじとみのこうじ西の地。

寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「ぬしや町」とみえるのが初見で、以後変化はない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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