日本歴史地名大系 「長府藩毛利氏館跡」の解説
長府藩毛利氏館跡
ちようふはんもうりしやかたあと
長府の南部、海岸近くの
天正一二年(一五八四)に毛利輝元の養子となった秀元は、輝元の子秀就の出生によって分家、豊浦郡の大部分を藩領として一家をなした。居城としてかつて大内家の臣内藤隆春がいたという
江戸時代初期の様子を伝える毛利家所蔵の長府古図によれば、街の南端に「御屋職」とみえ、四棟の建物が描かれ、北西の湾になった所に二ヵ所の御舟入、御舟道具御倉がみえる。また江戸時代中期の様子を伝える乃木家所蔵の長府古図によれば、惣門・裏門・本館をはじめ長屋・腰掛・馬場・的場・御船入などがあり、また「ヤゲンボリ」という堀も造られ、館の規模が大きくなっている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報