現下関市の南東部にあたり、北および西は標高二〇〇―三〇〇メートルの丘陵で囲まれる。東は周防灘に面し、海岸に沿って平地が続いている。沖に
「和名抄」にみえる長門国の「豊浦郡」はこの地を中心に比定され、また「日本書紀」仲哀天皇二年九月に「宮室を穴門に興てて居します。是を穴門豊浦宮と謂す」とある豊浦宮の置かれた地とされる。白雉元年(六五〇)二月
天平年代(七二九―七四九)には長門鋳銭所ができ、また各国に国分寺・国分尼寺が建立されていること(続日本紀)から、この地に国分寺が建立されたのもその頃と思われる。長府は長門国府がつづまってよばれるようになったもので、中世後期より散見する。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
現在の山口県下関市大字豊浦町を中心とした地域の地名。〈長府〉の名は律令制の〈長門国府〉をちぢめた呼称で,中世後期から使用されたと思われる。国府城,国庁所在地は不明だが,域内には長門鋳銭所(鋳銭司),国分寺,国分尼寺なども設置され,国府としての体制は整っていたはずである。鎌倉時代に入って長門守護が守護所を,また長門探題が設置されると探題所を国府に置いたので,古代~鎌倉期の長門の政治の中心地であった。南北朝期後半に大内氏が武家方守護厚東氏を追って長門守護を兼ねると,政治的地位は低下したと思われる。南北朝後期にこの地を通った今川了俊は〈松原をはるかに行過て長門の国府になりぬ。北はまとて,東南にむきて家居あり。このさと一村過て神功皇后宮の御社(忌宮(いみのみや)神社)の前に出たり〉と書いている。忌宮神社周辺に国庁があったと推定されており,この時期までの長府は政治の中心であっても,都市とは言いがたい様相であった。戦国時代に入ると長府市場の呼称がみえ,紺屋座,金物座や南ノ町,中浜町,土居ノ内町,中ノ町の名がみえ,都市的状況が成立していることがわかる。
執筆者:木村 忠夫 1600年(慶長5)毛利秀元は,長門国豊浦郡で高3.6万余石の領地をえて,02年長府雄山(かつやま)城(櫛崎城)を居城としたが,15年(元和1)の一国一城制によって城を破却し,同所に居館を建てた。1610年の検地帳によると,府中(長府)は総石高1547石余,田67町余,畠32町余,百姓屋敷20軒,町屋敷588軒であり,町屋敷が圧倒的に多かった。長府は中世末には町が成立していたが,居館の建設とともに城下町として形を整えた。以後長府は長府藩の政治・文化の中心地となった。1792年(寛政4)同藩は藩校敬業館を裏侍町に設置し,小田亨叙を学頭に迎え,学問・教育を振興した。1937年下関市に編入。
執筆者:小川 国治
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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