翻訳|battleship
もっとも強大な砲力と堅牢(けんろう)な防御力を備え、艦隊の主力となり、洋上で砲撃により敵艦船を撃滅することを主任務とした軍艦。多数の大口径砲を搭載し、おおむね自己の主砲弾の命中に耐えるよう、船体主要部の舷側(げんそく)と甲板、主砲塔に厚い甲鈑(こうはん)を装着するとともに、魚雷・機雷の爆発に対する水中防御を有するため船型は大型になり、第二次世界大戦まではわずかな大型航空母艦を除けばもっとも大きな軍艦であった。速力は、同時期の巡洋艦、駆逐艦などの高速艦艇より数ノットないし10ノット程度低い。19世紀後半に出現して以来、第二次世界大戦まで海軍兵力の主力であり、その保有隻数と個艦の威力が国力のシンボルとみなされ、政治・外交に大きな影響を与えたが、第二次世界大戦中に航空機と航空母艦が海軍の主兵力となったため、戦艦は兵術的価値を失い過去の存在となった。大戦後に各国とも順次除籍し、現在は記念保存艦および除籍後の保管艦を除き、すべて姿を消した。
[阿部安雄]
戦艦の起源は17世紀後半に出現した戦列艦ship of the lineに求められる。これは、戦列を構成し、多数の舷側砲の一斉射撃により敵艦隊と交戦することを任務とした木造帆装軍艦で、1805年のトラファルガーの海戦においてイギリス艦隊司令長官ネルソン提督の旗艦となったビクトリーVictory(2162トン、砲100門)は、その代表的なものであった。
[阿部安雄]
19世紀になって蒸気機関の実用化、炸裂(さくれつ)弾を発射する榴弾(りゅうだん)砲の考案などの技術革新が進み、艦砲の威力増大に対応して舷側水線部に厚い甲鈑を張った装甲艦iron cladが建造され、戦列艦にとってかわった。最初の艦は1859年に進水したフランスのグロアールGloire(5600トン、12.8ノット)で、木造船体に厚さ10センチメートルの甲鈑を張り、舷側に16センチ砲30門を装備した機帆兼用艦だった。これに対抗して、1860年に進水したイギリスのウォーリアWarrior(9000トン、14.3ノット、20センチ砲38門)は、初めて船体を鉄製とした装甲艦で、これが戦艦、巡洋戦艦、大型装甲巡洋艦などへと発展した。両艦の出現以後、5000~1万トンで強力な砲兵装を備えた装甲艦が各国で建造され、主砲は装備数を減じて大口径化の途をたどり、初期の舷側砲門艦broadside shipに続いて、船体中央部の防御砲郭に主砲を装備した中央砲郭艦casmate shipが出現し、さらに旋回砲塔を搭載した砲塔艦turret shipが1860年代末につくられた。蒸気機関の発達により帆装は廃止されるようになり、甲板旋回砲塔装備方法の改善が進み、中央の防御区画の上に2基の砲塔を梯形(ていけい)配置した中央砲塔艦central turret shipが1870年代に建造され、さらに船体前部または前後部の中心線上に露砲塔を設けた露砲塔艦barbette shipが1880年代初めに出現した。
1880年ごろ、従来の前装滑腔(かっくう)砲にかわって元込め式で砲身にライフルを切った後装施条砲が開発され、砲撃威力、命中精度が著しく向上した。1892年に完成したイギリスのロイヤル・ソブリン級Royal Sovereign Class(1万4150トン、16.5ノット)は34センチ後装施条砲4門を露砲塔に装備するとともに、厚さ45.7センチメートルの甲鈑を舷側に装着し、均整のとれた攻防力に加えて優れた航洋力を備え、近代戦艦の嚆矢(こうし)となり、このころから従来の装甲艦、砲塔装甲(甲鉄)艦などにかわって戦艦の名称が使用されるようになった。主砲は、さらに全周囲に耐弾防御を施した砲塔へと発達し、口径は30センチメートルに縮小したが、従来の40~43センチ砲より砲撃威力は増大した。防御甲鈑も滲炭(しんたん)技術を用いて耐弾力を著しく高めたハーベイ甲鈑が発明され、続いてこれを改良したクルップ甲鈑やビッカース甲鈑が開発された。これらの技術進歩を取り入れて1895年に竣工(しゅんこう)したイギリスのマジェスチック級Majestic Class(1万4900トン、17ノット)に至って戦艦の基本形態が定まった。本級は、前後部に30センチ連装砲塔を1基ずつ装備し、以後これが戦艦の標準的主兵装とされ、ド(弩)級戦艦(詳細後述)の出現に至るまでこの方式の艦が各国で多数建造された。三笠(みかさ)(1万5140トン、18ノット、30センチ砲4門)をはじめとする日露戦争時の日本戦艦(すべてイギリス製)もこれに含まれ、いずれも当時の最精鋭艦である。
当時の砲戦距離はおおむね7000メートル以内であったため、防御は舷側の水線装甲鈑による耐弾防御に重点が置かれ、水中防御はほとんど考慮されていなかった。
[阿部安雄]
日露戦争で初めて戦艦どうしの海戦が行われ、大口径砲を搭載した戦艦が海上戦闘の勝敗を決するのに決定的な威力をもち、その集中射撃に対してはいかなる堅艦も抗しえないことが明らかになり、ここに大艦巨砲主義が確立するに至った。イギリスはこの戦訓に基づき、中間砲と15センチ副砲を廃止して極力多数の主砲を搭載し(単一口径主砲主義)、従来の往復動式蒸気機関にかえて蒸気タービンを採用して20ノットを超す速力を実現した、革新的戦艦ドレッドノートDreadnought(1万8110トン、21ノット、30センチ砲連装5基)を1906年に完成させ、これによって従来の戦艦は一挙にその価値を失った。このような単一口径主砲の戦艦を、艦名の最初の文字ドをとってド級戦艦とよんだ。イギリスはドレッドノートと同時に、大型装甲巡洋艦にド級戦艦並みの砲力を搭載し、さらに速力向上を図った巡洋戦艦インビンシブル級Invincible Class(1万7250トン、26.5ノット、30センチ砲8門)を1908年に完成させた。これら両方式の艦が主力艦として各国で競って建造された。
主砲の口径は30センチから34センチ、36センチ、38センチと増大の一途をたどり、34センチ以上の砲を搭載するものを超ド級艦と称した。主砲の口径増大に対応して防御も強化され、艦型は逐次大型化の道を歩み、第一次世界大戦中には3万トン近い艦も出現した。
1916年のユトランド沖海戦(ジュットランド海戦ともいう)における戦訓により、大遠距離砲戦での大落角弾に対する甲板防御(水平防御)の強化、至近弾や魚雷の爆発に対する水中防御の強化、弾火薬庫の防炎・防火対策、大浸水や火災に対する応急処置法の開発などが必要とされ、第一次世界大戦末期から戦後にかけてこれらを取り入れた艦が、イギリス、アメリカ、日本で建造され、これをポストジュットランド型と称した。日本の長門(ながと)型(3万3800トン)は防御力の強化のみでなく、主砲に40センチ砲を率先採用し、さらに機関にオールギヤードタービンと重油専焼ボイラーを用いて、26.5ノットの高速戦艦となった。高速戦艦は戦艦の攻防力と巡洋戦艦の速力を兼ね備えたもので、第一次世界大戦中にイギリスが先鞭(せんべん)をつけ、日本の八八艦隊計画の主力艦はすべてこのタイプとして設計された。
[阿部安雄]
1922年ワシントン海軍軍縮条約の成立により、イギリス、アメリカ、日本、フランス、イタリアの戦艦保有量と新規建造艦の限度(基準排水量3万5000トン以内、主砲口径40センチメートル以下)が定められたことにより、主力艦建造競争に終止符が打たれ、多数の既成艦と未成艦が廃棄された。1927年に完成したイギリスのネルソン級Nelson Class(3万3950トン、23ノット、40センチ砲9門)は条約の規定に従って建造された唯一の戦艦で、徹底した集中防御方式を採用した最初の艦であるとともに、三連装主砲をすべて前部に集中装備し、以後の各国戦艦の設計に大きな影響を及ぼした。
その後、ドイツの装甲艦ドイッチュラント級Deutschland Class(1万1700トン、26ノット、28センチ砲6門、1933年完成)建造を契機として、ヨーロッパで2万6000~3万2000トン、28~33センチ砲装備の中型高速戦艦が建造された。ついで3万5000トン級で最大口径砲を装備する本格的戦艦の建造が始まり、1936年末に軍縮条約が失効すると、アメリカ、イギリス、日本も新戦艦の建造に着手した。これらは口径36センチメートル以上の大口径砲を搭載し、3万メートル台の優れた大遠距離砲戦能力を備え、重防御の高速戦艦で、高角砲、機銃などの対空兵装を多数装備していた。イギリスのキング・ジョージ5世級King George Ⅴ Class(3万6750トン、27.5ノット、36センチ砲10門)、アメリカのノース・カロライナ級North Carolina Class(3万8000トン、28ノット、40センチ砲9門)、アイオワ級Iowa Class(4万8500トン、33ノット、40センチ砲9門)、日本の大和(やまと)型(6万4000トン、27ノット、46センチ砲9門)などがこの時期の代表的な艦であった。ドイツ、イタリア、フランスも、イギリス、アメリカ艦と同様の高速戦艦を建造し、いずれも第二次世界大戦直前・戦中に完成した。
航空機と航空母艦の発達により、第二次世界大戦では戦艦部隊どうしの洋上艦隊決戦が行われる機会がなくなり、さらに多数の航空機による集中的な魚雷・爆弾攻撃の前には、いかに強固な防御を施された戦艦といえども耐え抜きえないことが明白に立証されるに至った。この結果、戦艦は長年にわたる海軍主力兵力の地位を失い、第二次世界大戦中は空母機動部隊の直衛、艦隊旗艦、陸上砲撃、船団護衛などに使用された。
[阿部安雄]
第二次世界大戦後、各国の戦艦は逐次廃艦とされ、1960年代中ごろまでにアメリカのアイオワ級4隻を残してすべて姿を消した。アメリカは本級を朝鮮戦争およびベトナム戦争で陸上砲撃に用い、さらに1980年代初めから水上打撃部隊の中核艦として使用するため、トマホーク巡航ミサイル、ハープーン対艦ミサイルなどの装備を含む近代化改修工事を実施して再就役させ、このうち2隻は湾岸戦争にも参加した。1990~1992年に4隻とも予備役となり、1995年に除籍され、戦艦の歴史は幕を閉じた。
[阿部安雄]
『『世界の戦艦 大艦巨砲編』(1998・世界文化社)』▽『『世界の戦艦 弩級戦艦編』(1999・世界文化社)』▽『『世界の戦艦――砲力と装甲の優越で艦隊決戦に君臨したバトルシップ発達史 「歴史群像」太平洋戦史シリーズ41』(2003・学習研究社)』▽『『世界の艦船増刊第83集 近代戦艦史』(2008・海人社)』▽『『福井静夫著作集1 日本戦艦物語Ⅰ』(2008・光人社)』▽『『福井静夫著作集2 日本戦艦物語Ⅱ』(2008・光人社)』▽『『福井静夫著作集6 世界戦艦物語』(2009・光人社)』▽『Tony GibbonsThe Complete Encyclopedia of Battleships and Battlecruisers; A Technical Directory of All The World's Capital Ships from 1860 to Present Day(1983, Salamand Books)』
大口径砲により敵の艦船を砲撃するのが主任務の軍艦で,第2次世界大戦までは艦隊の中心的存在と考えられていた。航空機の発達により,同大戦中は期待の戦果を挙げえなかったため,戦後順次退役し,現在は余命を保った戦艦が数隻,アメリカに残されているにすぎない。
16世紀半ば以降,帆と櫓櫂(ろかい)の木造ガレー船に代わり帆走主体の木造ガレオン船が出現した。1588年ガレオン船同士の艦隊決戦で,砲戦を主戦法としたイギリスが衝角と切込み中心の接近戦を主戦法としたスペインに勝ったことが戦列艦ships of the lineを生む端緒となった。戦列艦とは戦列を構成し,相手とある距離を保ち一斉射撃をする艦をいい,この中の大型艦が戦艦に相当する。17世紀から18世紀後半にかけての大型艦は,砲を搭載する全通甲板(船の全長にわたる甲板)の数が3層のガレオン船が主流で,三層甲板艦と称した。中でも1805年トラファルガーの海戦でH.ネルソンの旗艦となったイギリスの〈ビクトリー号〉は有名である。
19世紀に入って蒸気機関が実用化され,スクリュー推進が考案された。この採用に伴い帆の廃止が促され,旋回砲塔を装備する艦が誕生した。また当時木造船体の水線部に敵弾防御用の鉄板を張っていた装甲艦は,鉄製・鋼製船体の艦へと移行していった。この種の艦は甲鉄砲塔艦と呼ばれ,近代戦艦の祖型として以後30年間世界海軍の主力となった。1873年イギリスで建造された〈デバステーションDevastation〉(6170トン)がこの元祖で,日清戦争時の清国海軍主力艦〈定遠〉〈鎮遠〉はこのタイプに該当する。1895年イギリスの〈マジェスティックMajestic〉が,また1902年日本がイギリスに発注した〈三笠〉が完成した。両艦は防御装甲に鉄や軟鋼より耐弾力が強い特殊鋼を使用したが,これによる重量軽減の結果,大馬力の機関を搭載して速力を増し,兵器や弾火薬の搭載量も増大させることができた。
1906年イギリスは日本海海戦の戦訓を取り入れて,〈ドレッドノートDreadnought〉(1万7900トン)を建造した。これはド(弩)級戦艦と呼ばれ,蒸気タービンを採用して出力を2倍程度に高め,また主砲を増加させて副砲は全廃し,かつ砲塔は極力艦の中心線上に配置して,艦首尾および艦横方向へ斉射できるようにした点で革新的戦艦と目された。この艦の登場以来十数年の間,世界主要海軍国は他国を凌駕(りようが)すべく建艦競争を行い,ここに大艦巨砲時代を迎えた。08年イギリスに〈インビンシブルInvincible〉が完成したが,これは戦艦の砲力と巡洋艦の高速力を兼備したものでド級巡洋戦艦と称された。以後さらに速力,防御力,攻撃力でド級艦を上回る軍艦が生まれ,これは超ド級戦艦,超ド級巡洋戦艦と呼ばれた。12年イギリスで完成した〈オライオンOrion〉,13年日本がイギリスに発注した〈金剛〉がこれに該当する。
第1次世界大戦当時は急速に威力を増した魚雷攻撃に備えて駆逐艦などを戦艦の外側に配列してこれの防御に当たらせ,戦艦はすぐれた砲力で敵を圧倒する役割を担っていた。1916年ユトランド沖海戦の戦訓は,大きな角度で落ちてくる砲弾や艦の近くの水中で爆発する砲弾に対する防御力の強化,大浸水,火災に対する応急処理方法の開発,射撃距離測定精度の向上を促した。さらに主砲の口径を大きくした攻撃力の向上と,より一層の高速化が図られた高速戦艦を生み出すことになった。例として日本の〈長門〉,イギリスの〈ネルソンNelson〉,アメリカの〈メリーランドMaryland〉などがある。
ワシントン軍縮条約(1922)で戦艦の保有量などが制限され,建艦は中断されたが,条約の失効(1937)により再開された。当時の代表艦たる日本の〈大和〉〈武蔵〉(各6万9100トン)は,砲の射程,命中精度ともに飛躍的に向上したが,現在の艦対艦ミサイルには及ぶべくもない。
第2次世界大戦後は,朝鮮戦争,ベトナム戦争などで艦砲射撃に活躍した。現在はアメリカのアイオワIowa級戦艦4隻が残るのみであり,〈ニュージャージーNew Jersey〉が改修を終え1982年に再就役,他の3隻も近代化による再就役が図られている。
執筆者:佐倉 俊二
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すぐれた攻撃力と防御力を備え,海戦のとき中核となる軍艦。近代海軍では備砲の口径が大きいことと装甲の厚いことが必要で,日本海軍では1896年(明治29)イギリスで進水し日露戦争に参加した富士・八島が最初の保有。ワシントン海軍軍縮条約で戦艦の条件は,排水量1.0~3.5万トン,備砲20~40cmとなり,日本保有は10隻。太平洋戦争中に日本は超戦艦大和・武蔵を建造したが,海戦主兵の座を航空母艦・航空機に譲る。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
… 日本海海戦でロシアのバルチック艦隊38隻中19隻を撃沈し5隻を捕獲した日本海軍の圧勝から,各国海軍はいよいよ大艦巨砲主義に傾斜,とくに,イギリスのドレッドノートの進水(1906)は砲数,口径,スピードで建艦上の革命をもたらした。なかでも戦艦は帝国主義時代における国家の威信と力の象徴となり,一国の工業力と技術水準を反映して巨費を投じての激烈な建艦競争が展開された。海軍の規模が拡大するにつれて,士官中の貴族出身者の比率が低下し,兵員も徴兵が志願兵を圧倒していく。…
…これは機関砲,ロケット弾,爆弾等を用いて,戦車の上面(地上での射ち合いでは死角になるため装甲は薄くなっている)にきわめて有効な攻撃を加えるため,戦車にとって最も恐るべき対抗兵器となった。一方,海上戦闘について見ると,第2次大戦開始以前においては,海上決戦の勝敗は戦艦同士の巨砲の射ち合いで決するものと考えられており,各国は競って巨砲を搭載した大型戦艦を建造した。しかし第2次大戦が始まってみると,このような決戦はほとんど見られず,かわって航空母艦を中心とする機動艦隊同士の航空決戦が行われることになった。…
※「戦艦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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