日本歴史地名大系 「長竹村」の解説 長竹村ながたけむら 神奈川県:津久井郡津久井町長竹村[現在地名]津久井町長竹青山(あおやま)村の東、串(くし)川沿いの村で、東および北は根小屋(ねごや)村、南は愛甲(あいこう)郡半原(はんばら)村・田代(たしろ)村・三増(みませ)村(現愛川町)に接する。天和三年(一六八三)上長竹村・下長竹村に分村(同年「長竹村検地帳写」明大日本史研究室蔵)したが、田畑・山林・民家など入交じり村界は不明。村明細帳でも村高・年貢は上下に分れているが小名は韮尾根(にろおね)(二郎根)・稲生(いのう)・沼(ぬま)・石(いし)ヶ沢(ざわ)・喜登宇豆久(きとうずく)(北尾附)と両村同一となっている。小田原衆所領役帳に井上帯刀左衛門「三貫文 長竹之村」とある。 長竹村ながたけむら 石川県:松任市長竹村[現在地名]松任市長竹町乾垣内(いぬいかくち)村の東に位置し、郷(ごう)用水の分流吉名(よしな)川が流れる。古くは長滝村と記された。天文七年(一五三八)九月九日、幕府奉公衆三淵掃部は本願寺証如に年貢納入の口添えを依頼している。このとき証如は、当地はかつて倉光氏の庶子家が知行してきたが、同家退転後は惣領家が管掌していたと述べている(天文日記)。正保郷帳に長滝村とみえ、町(まち)村と一括して高付されており、高六〇二石余、田方三五町七反余・畑方四町四反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印(新松任町史)では高四〇九石、免五ツ一歩、小物成はなし。寛文年間の家高数八・百姓数五(高免付給人帳)。本村の東に枝村越中屋(えつちゆうや)がある。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報