長迫村(読み)ながさこむら

日本歴史地名大系 「長迫村」の解説

長迫村
ながさこむら

[現在地名]清川村砂田すなだ 長迫・上市かみいち中市なかいち下市しもいち

宗福そうふく村の西、緒方おがた川の南岸にある。臼杵うすきおか城路が東から西へ進み、村内で南へ折れる。正保郷帳に村名がみえ、田高一三三石余・畑高八一石余、耳忍みみしの郷に属し、柴山有と注記される。天保(一八三〇―四四)頃の御案内記(大久保家文書)では高二五四石余・反別三二町七反余、免七ツ六分の中の村で物成は米一五三石・大豆七〇石余、家数五一・人数二一五、牛五七・馬一九。

長迫村
ながさこむら

[現在地名]熊本市池田いけだ三丁目

坪井つぼい川と井芹いせり川に挟まれて南北に延びる台地上にあり、東は五町手永の津浦つのうら村、北は同手永の徳王とくおう(現飽託郡北部町)、西は西原にしばる村、南は岩立いわたて村に接する。応永六年(一三九九)一月一四日の鹿子木東荘坪付(詫摩文書)に「一所八町 なかさこ」とある。

慶長一三年(一六〇八)検地帳では、田方七町七反五畝・畠方二五町五反八畝余、分米二七九石九斗余で、このほか、茶床一畝余があり、竈数七・棟数二三、男一八・女一三、牛馬九とある。

長迫村
ながさこむら

[現在地名]竹田市米納よない

おか城下より久住くじゆう(現久住町)に至る街道上、城原きばる八幡社の東方にあり、幕末木原きばる村から分村した。弘化物成帳では木原組のうち、村位は中、免八ツ五分七厘、田五九石余(五町七反余)・畑一六石余(三町余)・屋敷二石余(二反余)で、開田はほとんどなく、開畑五斗余(九反余)がある。

長迫村
ながさこむら

[現在地名]竹田市次倉つぎくら

おか城下から日向高千穂たかちほ(現宮崎県西臼杵郡)への道に沿い、岡城下から三里八町。北東上瀬野口かみせのくち村、南東宮戸みやど村。正保郷帳では次倉郷に属し、田方四九石余・畑方六四石余。弘化物成帳では次倉組のうち、村位は中、免七ツ一分、田一〇二石余(一〇町余)・畑一三三石余(二二町七反余)・屋敷五石余(五反余)で、開田二斗余(一反余)・開畑三石余(五町七反余)がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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