竹田市(読み)タケタシ

デジタル大辞泉 「竹田市」の意味・読み・例文・類語

たけた‐し【竹田市】

竹田

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

日本歴史地名大系 「竹田市」の解説

竹田市
たけたし

面積:二〇〇・八三平方キロ

県の南西部にあり、北は直入なおいり久住くじゆう町・直入町北東は大野郡朝地あさじ町、東は同郡緒方おがた町、南は祖母そぼ山頂・国観くにみ峠でわずかに宮崎県西臼杵にしうすき高千穂たかちほ町、西は熊本県阿蘇郡高森たかもり町・波野なみの村・産山うぶやま村に接し、熊本県境に直入郡おぎ町が楔形に当市域に食込んでいる。西側に祖母山や九重くじゆう山系の一七〇〇―一八〇〇メートルの山々が連なり、それらの山々に源をもつ川がほぼ東流し、緒方川・大谷おおたに川・滝水たきみず川・玉来たまらい川・稲葉いなば川となり、いずれも大野川(白滝川)に注ぐ。これらの川はほぼ城下町のあった竹田へ集中し、道路もこれに沿う。豊後と肥後を結ぶ国道五七号が市域を貫通し、竹田から国道四四二号が分岐し、久住町を経て日田市方面へ向かう。JR豊肥本線も市域を貫通している。

〔原始〕

標高二五〇―七〇〇メートルの台地性の土地は居住性にすぐれていたと思われ、市内のいたる所に遺跡がある。縄文時代早期のヤトコロ遺跡は標式遺跡とされる。また西園南にしぞのみなみ遺跡も知られる。早期末から前期・中期にかけての遺跡は急に少なくなる。理由は阿蘇の火山活動の活発化と思われる。後期に再び遺跡が多くなり、太田原おおたばる遺跡では方形プランの住居跡が確認された。当地方は高原畑作適地のため、かつては弥生遺跡は少ないと考えられていたが、調査が進むと、縄文遺跡と重複・近接して数多くの遺跡が発見された。中期のものとして太田原遺跡・田頭たがしら遺跡が知られる。とくに後期になると菅生すごう台地周辺で遺跡が急増する。小園おぞの遺跡・石井入口いしいいりぐち遺跡はその代表例である。古墳時代に入ると、菅生台地東端にななもり古墳がみえ、いくつかの古墳が確認されている。七ッ森古墳はかつて七つの古墳があったと伝えるが、現在は前方後円墳二基・円墳二基がある。前方後円墳の一つは全長四七メートル、柄鏡式で碧玉製石釧などが出土、四世紀代の築造と考えられている。

〔古代〕

「日本書紀」景行天皇一二年一〇月条によれば、「直入県の禰疑野」に打・八田・国摩侶という三人の土蜘蛛がおり、天皇に従わなかった。


竹田市
たけたし

2005年4月1日:竹田市と直入郡直入町・久住町・荻町が合併
【直入町】大分県:直入郡
【久住町】大分県:直入郡
【荻町】大分県:直入郡
【竹田市】大分県

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「竹田市」の意味・わかりやすい解説

竹田〔市〕
たけた

大分県南西部,北は九重火山群 (→九重山 ) ,南は祖母山に挟まれ,竹田盆地を中心に広がる市。南端で宮崎県,西部で熊本県に接する。 1954年竹田町,玉来町の2町と近隣8村が合体して市制。 2005年町,久住町,直入町と合体。中心市街地の竹田は古くから九州横断のための交通上の要地で,鎌倉時代初期から大友氏が支配,大友氏一族の志賀氏を経て,文禄3 (1594) 年以降幕末までは岡藩中川氏7万石の城下町として発達した。農村部では米作のほか,1967年以降は農業振興に関する地域指定を受けて,カボスなどの果樹栽培,高冷地野菜栽培,乳牛飼育なども導入。中心市街地には中川神社のキリシタン銅鐘 (サンチアゴの鐘,国指定重要文化財) ,七ツ森古墳群,滝廉太郎ゆかりの岡城跡 (国指定史跡) ,田能村竹田の墓および旧宅竹田荘 (ともに国指定史跡) ,安土桃山時代の様式を伝える愛染堂,キリシタン洞窟礼拝堂など歴史的遺物や名所旧跡が多く,1978年伝統的文化都市に指定。北東部の久住は,江戸時代は熊本藩に属し,熊本と鶴崎を結ぶ宿場町として発展。北西の市境には芹川ダムがある。北東部は神角寺芹川県立自然公園,北西部は阿蘇くじゅう国立公園,南部は祖母傾国定公園に属する。 JR豊肥本線と国道 57号線,447号線が通じる。面積 477.53km2(境界未定)。人口 2万332(2020)。

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