清川村
きよかわむら
[現在地名]立川町清川
庄内平野の東端、最上川と立谷沢川の合流点に位置。鶴ヶ岡城下と江戸街道で結ばれ、南に板敷越の道が延びる。内陸と酒田を結ぶ最上川舟運の河岸の一つとして発達し、物資や旅人の往来も盛んで、羽黒山登拝口の一つでもあった。江戸時代、関所と御茶屋が置かれた。立谷沢川対岸に枝郷の川原新田村があり、西は東興野村、南は片倉村、北と東は最上川を隔て新興屋村(現飽海郡松山町)。延元元年(一三三六)四月二日の結城宗広譲状写(白河故事考所収文書)に「出羽国余部内尾青村・清河村」とみえ、宗広は手継証文を添えて他の所領とともに孫の七郎左衛門尉顕朝に譲渡している。同所は応安二年(一三六九)六月一九日の結城顕朝譲状(写、同文書)によって満朝に譲られ、応永四年(一三九七)には満朝から氏朝に譲渡されている(同年一〇月二一日「結城満朝譲状写」同文書)。「義経記」巻七によると、源義経一行は文治三年(一一八七)当地に着き、地内の五所王子(現御諸皇子神社)で一夜を明かし、最上川を舟で上ったと伝えている。同書に「この清川と申は、羽黒権現の御手洗なり。月山の禅定より北の腰に流れ落ちけり。
清川村
きよかわむら
面積:四七・一八平方キロ
郡南西部にあり、東は三重町、西は緒方町、北は東流する大野川を隔てて大野町に接する。南西部は祖母傾山系の急峻な山地帯、中部から北部にかけては比較的なだらかな台地が続き、北部と北東部は緒方川・奥岳川・中津無礼川の河岸段丘地帯が占める。JR豊肥本線が北部をほぼ東西に通り、豊後清川駅が設けられている。同線に沿って国道五〇二号が走り、天神・砂田地区で南東へ県道宇目―清川線が分岐する。
北東端臼尾の岩戸地区には旧石器時代の岩戸遺跡(国指定史跡)がある。律令制下では大野郡に属し、「和名抄」記載の同郡緒方郷に含まれたとみられる。
清川村
きよかわむら
[現在地名]臼田町大字常和
東からは関東山系の支脈が長い裾をひいて迫り、先端の一部は低い丘陵となって集落の南側を西に延びている。西方は佐久平に向かって水田地帯が開けている。東は山林原野をもって内山村(現佐久市)と、西は耕地・用水堰をもって上中込村・大田部村と境し、南は田野口村と、北は山田村(現佐久郡)と境している。
天正一四年(一五八六)依田康国領で信州佐久郡之内貫之御帳に「百九拾三貫七百文 清川」とある。文禄四年(一五九五)仙石秀久領で御郡中永楽高辻には「三百貫文、清川村」とあるので、中世は山田郷の中に含まれていたものと思われる。
清川村
きよかわむら
面積:七一・九五平方キロ
郡の西部を占め、北東部に愛川町、北西部に津久井郡津久井町、南東部に厚木市、南西部に秦野市、西に足柄上郡山北町とそれぞれ境を接する。村域の大部分が丹沢山塊中にあり、従来主要産業は山林業であり、畑に栗・茶を栽培する。耕地と集落は、東南流する小鮎川と東北流する中津川の流域のみに散在し、往還はこの両河川と集落に沿って村中を貫く一道がただ一つあるにすぎない。
清川村
きよかわむら
明治一四年(一八八一)清水村・濁川村が合併して成立した村。同三三年まで存続。明治一三年の戸数八八・人口四七六。農業は米四八町一反余・三〇〇石余、馬鈴薯一四町五反・三一四石余、蕎麦一四町一反・四九石余、大豆一三町五反余・一二九石余、ほかに養蚕があり、馬五四、牧場二ヵ所(上磯町誌)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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