関 右馬允
セキ ウマノジョウ
明治〜昭和期の市民運動家
- 生年
- 明治21(1888)年7月23日
- 没年
- 昭和48(1973)年12月19日
- 出生地
- 茨城県勝田市
- 別名
- 幼名=関 三郎,号=天洲
- 学歴〔年〕
- 太田中学校〔明治37年〕中退
- 経歴
- 明治42年入四間青年同志会を結成、農村青年団運動で活躍。44年日立鉱山の煙害問題が起こり、入四間交渉委員長となって、徹底的な被害の実態調査をし、補償交渉、被害対策防止に全力を注いだ。公害運動の先駆者として宇井純が「公害原論」で取り上げ、新田次郎「ある町の高い煙突」の主人公として登場、関自身も「日立鉱山煙害問題昔話」を書いた。大正3年公益銀行常務、昭和7年中里村村長を務めた。著書に「常北之山水」「茨城県巨樹老木誌(上下)」などがある。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
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関右馬允 せき-うまのじょう
1888-1973 明治-昭和時代の社会運動家,写真家。
明治21年7月23日生まれ。日立鉱山の煙害に対し,生地茨城県の入四間(いりしけん)(日立市)煙害対策委員長をつとめ,明治44年から35年間煙害防止と環境保全にとりくむ。新田次郎著「ある町の高い煙突」の主人公のモデル。昭和48年12月19日死去。85歳。著作に「茨城県巨樹老木誌」「日立鉱山煙害問題昔話」。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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世界大百科事典(旧版)内の関右馬允の言及
【日立鉱山】より
…1905年藤田組の小坂鉱山所長であった[久原(くはら)房之助]が買収し,日立鉱山と改称。久原は大規模な自家発電により坑内外の電化を行って開発に成功するが,07年早くも鉱山の〈死活を決する〉煙害問題が発生し,関右馬允(せきうめのじよう)を指導者とする近隣農民の煙害反対運動に直面した。試行錯誤の末,14年,当時としては世界一の高さを誇る155.7mの煙突(おばけ煙突)を建設し,危機を乗り切った。…
※「関右馬允」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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