日本歴史地名大系 「日立市」の解説 日立市ひたちし 面積:一五二・七四平方キロ県北東部に位置し、北は多賀郡十王町、西は久慈郡里美村・常陸太田市、南は那珂郡東海村、東は太平洋に臨む。北西部は多賀山地および久慈山地丘陵、東部は海岸段丘面、南部は久慈川下流低地である。多賀山地には標高六二三・六メートルの高鈴(たかすず)山、五九八メートルの神峰(かみね)山があり、河川は北から東連津(とうれんづ)川・宮田(みやた)川・鮎(あゆ)川・桜川・茂宮(もみや)川・久慈川などがほぼ平行して東流する。国道六号(旧岩城相馬街道)と国鉄常磐線が海岸線寄りを、国道三四九号が西側山間部を通る。〔原始〕先土器時代遺跡は六(む)ツヶ塚(つか)遺跡・上笹目(かみささめ)遺跡・笹目ネバ山遺跡・鹿野場(かのば)遺跡が確認される。縄文時代遺跡は約六五ヵ所、早期の前山(まえやま)遺跡、前期・中期の泉原(いずみはら)遺跡・八幡平(はちまんだいら)遺跡、中期・後期の南高野(みなみこうや)貝塚が知られる。弥生時代遺跡は舞台(ぶたい)遺跡をはじめ約二〇ヵ所が確認される。古墳時代遺跡は西の妻(にしのつま)前方後円墳・甕(みか)ノ原(はら)前方後円墳およびかんぶり穴横穴群・赤羽根(あかばね)横穴群をはじめ約一二〇ヵ所で、かんぶり穴横穴群は線彫と赤・黒・白の塗彩を用いた稀有の壁画のある横穴墓三基を含む。〔古代〕「常陸国風土記」多珂(たか)郡の項に「建御狭日命、遣はされし時に当り、久慈の堺の助河(すけかは)を以ちて道前(みちのくち)と為し、郡を去ること西南のかた三十里、今も猶、道前の里と称ふ」とみえ、助川里以南は久慈郡、道前里以北は多珂郡という。当市域は、「和名抄」に載る古代郷では久慈郡高月郷・助川郷・高市(たけち)郷と多珂郡道口(みちのくち)郷に比定されるが、高月は箕月(みつき)の誤記とされる。助川駅は助川郷内に比定され、藻島(めしま)駅(現多賀郡十王町)へ通じる官道が縦貫していた。「延喜式」神名帳に載る密筑(みつき)里の天速玉姫命(あめのはやたまひめのみこと)神社(現泉神社)は「三代実録」貞観八年(八六六)五月二七日条によると従五位下、同一六年一二月二九日条に従五位上を授けられているが、この叙位は当地域の度々の高潮・洪水・地震・飢饉などの天災地変に対処するものであった。 日立市ひたちし 2004年11月1日:日立市が十王町を編入⇒【十王町】茨城県:多賀郡⇒【日立市】茨城県 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「日立市」の意味・わかりやすい解説 日立〔市〕ひたち 茨城県北東部,太平洋に臨む市。1939年市制。1955年多賀町,久慈町の 2町と日高村,中里村,坂本村,東小沢村の 4村,1956年豊浦町,2004年十王町をそれぞれ編入。陸前浜街道の宿場町に起源をもつ。1600年頃,鉱山が試掘されたが江戸時代はあまり採掘されず,明治期になって日立鉱山として開発され栄えた。鉱山用機械の工場がつくられ,その後工業都市として発展。鉱山は 1981年に閉山。南部の久慈川河口には日立港がある。神峰神社(かみねじんじゃ)の日立風流物は国の重要無形民俗文化財で,2016年「山・鉾・屋台行事」の一つとして国際連合教育科学文化機関 UNESCOの世界無形遺産に登録された。いぶき山イブキ樹叢は国の天然記念物。市域の一部が花園花貫県立自然公園,高鈴県立自然公園に属する。JR常磐線,国道6号線,245号線などが通り,常磐自動車道のインターチェンジがある。面積 225.86km2。人口 17万4508(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by