関津村(読み)せきのつむら

日本歴史地名大系 「関津村」の解説

関津村
せきのつむら

[現在地名]大津市田上関津町たなかみせきのつちよう

太支たいし村の南、瀬田せた川左岸に立地する。南は大石おおいし村。橋本はしもとから瀬田川沿いに南下大石東から甲賀へ抜ける関津道が通る。近世瀬田川舟運の関津浜が置かれた。天安元年(八五七)近江国に設置された大石関と瀬田川の渡船場があったことから関津の地名が起こったという。鉄滓が見つかった小山池こやまいけ遺跡・関ノ津東遺跡、大石関跡の関ノ津遺跡、鎌倉時代から室町時代にかけての関津城跡と多くの遺跡が残されている。中世以来黒津くろづとともに瀬田川の湊として栄え、文和三年(一三五四)一二月二三日後光厳天皇を奉じて京都を逃れた足利尊氏は、瀬田川を渡るために麾下の山内定詮を通じて「田上関・黒津船等」を勢多せたに集めるよう田上の沢蔵人に命じている(「六角氏奉行人連署奉書写」下郷共済会文庫所蔵文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

中国のゴビ砂漠などの砂がジェット気流に乗って日本へ飛来したとみられる黄色の砂。西日本に多く,九州西岸では年間 10日ぐらい,東岸では2日ぐらい降る。大陸砂漠の砂嵐の盛んな春に多いが,まれに冬にも起る。...

黄砂の用語解説を読む