日本大百科全書(ニッポニカ) 「膳所藩」の意味・わかりやすい解説
膳所藩
ぜぜはん
近江(おうみ)国膳所(滋賀県大津市)周辺を領有した譜代(ふだい)藩。1601年(慶長6)戸田一西(かずあき)が大津城に入り3万石を領有したが、翌年膳所城に移り膳所藩をおこした。1617年(元和3)一西の子氏鉄(うじかね)が摂津尼崎(せっつあまがさき)へ転封となり、かわって三河(みかわ)西尾城主であった本多康俊(ほんだやすとし)が入った。1621年康俊の子俊次(としつぐ)はふたたび西尾へ転封となり、伊勢長嶋(いせながしま)城主であった菅沼定好(すがぬまさだよし)が入った。ついで1634年(寛永11)菅沼氏が丹波亀山(たんばかめやま)へ転封となり、下総(しもうさ)佐倉城主であった石川忠総(ただふさ)が入った。さらに1651年(慶安4)には忠総の子憲之(のりゆき)が転封となり、伊勢亀山城主となっていた本多俊次が再度入封した。俊次は、近江国滋賀、栗太(くりた)、甲賀(こうが)、浅井、伊香(いか)、高島の6郡、および河内(かわち)国内で7万石を領有し、膳所に藩庁を置いた。1679年(延宝7)康将(やすまさ)のとき、子の忠恒(ただつね)に1万石を分知したため以後6万石として明治維新に至った。俊次、康将、康慶(やすよし)、康命(やすのぶ)、康敏(やすとし)、康恒(やすたけ)、康政(やすまさ)、康伴(やすとも)、康匡(やすただ)、康完(やすさだ)、康禎(やすさだ)、康融(やすあき)、康穣(やすしげ)と13代続いた。1747年(延享4)から藩財政改革をめぐる内紛が起こり、「御為筋(おためすじ)一件」とよばれる御家騒動に発展した。また1781年(天明1)には領内で百姓一揆(いっき)が発生した。1808年(文化5)康禎は、儒者皆川淇園(きえん)の勧めにより藩校遵義(じゅんぎ)堂を設立した。幕末維新期には藩内は勤王・佐幕両派が対立抗争したが、鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦いでは朝廷側にたった。1871年(明治4)7月膳所県となり、11月大津県に合併、翌72年正月滋賀県と改称。
[藤田恒春]
『平田好著『懐郷坐談 全』(膳所藩記録。1908・平田好)』▽『『新修大津市史』全7巻(1978~84・大津市)』