霊山城跡(読み)りようぜんじようあと

日本歴史地名大系 「霊山城跡」の解説

霊山城跡
りようぜんじようあと

霊山寺の山頂伽藍を利用した南北朝期の寺院城郭で、国司こくし館ともよばれる。建武四年(一三三七)陸奥国司北畠顕家が義良親王(のちの後村上天皇)を奉じて入山、城郭として整備され南朝方の拠点となり、国府の機能も有した。延元二年(一三三七)と推定される正月二五日の北畠顕家書状(有造館本結城古文書写)に「霊山」とみえ、顕家は義良親王が当地にいること、足利方が霊山城を囲んでいるので戦うつもりでいることを結城氏に伝えている。これは同年一月八日に、足利方の攻撃を受けて敗れた顕家が多賀たが国府を落ちて、「伊達郡ニ霊山ト云寺」に立籠ったことによるものである(保暦間記・元弘日記裏書)。霊山城を取囲んでいた足利方は、同月熊野堂くまのどう(現相馬市)に発向して合戦となり、次いで武野(現同市玉野か)路からも攻撃するため相馬氏らに動員をかけている(建武四年正月二七日「氏家道誠軍勢催促状」相馬文書)

建武四年三月八日、広橋経泰を大将とする南朝方は霊山館より小手おで河俣かわまた(現川俣町)を攻撃して、これを下した(延元二年八月二六日「相馬胤平軍忠状」相馬文書)。建武四年三月一〇日には国魂行泰ら南朝方の援軍が下野宇都宮から霊山御楯に入り、これに力を得た霊山の南朝方は、さらに行方なめかた小池こいけ(現鹿島町)を攻撃した(延元二年一二月日「国魂行泰軍忠状」国魂文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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