霊山城(読み)りょうぜんじょう

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

霊山城
りょうぜんじょう

福島県伊達市にあった山城北畠顕家陸奥国府に下った際,建武1 (1334) 年多賀城出城として築いた。延元1=建武3 (1336) 年多賀城が北朝方の攻勢にあって,翌年霊山国府を移した。顕家が上洛し,戦死したのちも,南朝方の拠点となったが,正平6 (1351) 年北朝方の猛攻にあって落城し,廃城となった。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

百科事典マイペディアの解説

霊山城【りょうぜんじょう】

福島県霊山町(・伊達市)にあった南北朝期の城。旧陸奥国伊達(だて)郡の東端に位置する霊山(825m,国指定史跡および名勝)に築かれた。1337年1月,陸奥国府の多賀(たが)城から退いた陸奥国司北畠顕家(きたばたけあきいえ)が義良(のりよし)親王(後の後村上天皇)を奉じて入山,霊山寺の山頂伽藍を利用して城郭とした。南朝方の拠点となり,国府の機能も有した。1337年以降,広橋経泰を大将とした南朝方と霊山を囲む北朝足利方の間で戦闘は断続的に続いたが,1347年足利方は大規模な軍勢催促を行って南朝軍を攻撃,霊山城はついに陥落した。なお1396年には新田義隆・同貞方の軍勢が鎌倉公方足利氏満・上杉憲定の軍勢を迎え撃つため霊山に立てこもり,合戦になったという。城跡の遺構は東西約450m・南北約1kmに及ぶ。霊山城碑・義良親王碑がある山上平場が詰の城とされ,その南下に国司館(こくしかん)跡といわれる平坦地があり,礎石建物跡などが確認された。さらにその南に位置する国司池付近にも削平地がみられる。ほか西物見岩・東物見岩・甲(かぶと)岩などの遺構がある。霊山寺は859年円仁(えんにん)によって開かれたと伝え,盛時には3600の衆徒を擁したという。空海(くうかい)結界の地とも伝え,天台・真言両密教兼学の一大道場であったと伝える。984年霊山寺学頭尊海が千手観音堂を中心とする伽藍を建立,薬師堂・阿弥陀堂・大日堂・勢至堂などの堂塔が林立していたという。その後寺勢は衰えたが,1311年沙門正観が再興,衆徒50ヵ寺余を数えたといわれる。1347年北朝方の霊山城攻撃により伽藍は灰燼に帰したとされる。遺跡は山上伽藍跡のほか,霊山町の二つ岩(ふたついわ)遺跡,相馬(そうま)市玉野(たまの)側にある寺屋敷(てらやしき)遺跡・東寺屋敷遺跡などがある。出土遺物から霊山寺は10世紀代の創建とされている。→霊山神社

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

世界大百科事典 第2版の解説

りょうぜんじょう【霊山城】

陸奥国伊達郡の東端にそそり立つ霊山に築かれた南北朝期の城(現,福島県霊山町)。信仰の山として慈覚大師開基という霊山寺が営まれ,最盛時3600坊の勢力を誇ったといわれるが(《霊山寺縁起》),1337年(延元2∥建武4)1月,鎮守府大将軍陸奥大介の北畠顕家が陸奥大守の義良(のりよし)親王を奉じて入山し,城郭を整備して国府の機能をここに移すに及び,あらためて全国的に注目された。山頂近くの国司館といわれる5間×4間の大礎石群を中心として,数多くの遺構が確認されている。

出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報

日本の城がわかる事典の解説

りょうぜんじょう【霊山城】

福島県伊達市(旧霊山町)と同県相馬市のの霊山(標高825m)にあった南北朝時代(室町時代初期)の山城(やまじろ)。国指定史跡。霊山は平安時代初めに第3代天台座主の円仁(慈覚大師)によって開かれた天台宗の拠点の一つで、最盛期は3600の坊があったといわれる。1337年(延元2)、北畠顕家がこの山に霊山城を築き、北朝方に多賀城(宮城県多賀城市)を奪われた後、義良親王(後の後村上天皇)を奉じて陸奥国府が置かれるなど南朝方の拠点となった。東北における南朝と北朝の戦いもしだいに北朝方が優勢となり、1347年(貞和3/正平2)に、霊山城は北朝方の奥州管領吉良貞家の攻撃を受け、ついに落城した。山頂付近の国司舘跡には当時のものとされる礎石が残っている。なお、霊山は国の名勝、日本百景、うつくしま百名山(福島県)に指定され、紅葉の名所となっている。JR東北本線・東北新幹線福島駅からバス約45分で掛田下車。さらに移薮行きバスに乗り換えて約20分で行合道下車、徒歩約1時間。

出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

霊山城
りょうぜんじょう

南北朝期の城。福島県伊達(だて)市霊山町霊山にあり、標高805メートルの霊山山頂および山腹に築かれた南北朝期に典型的な山城(やまじろ)である。1337年(延元2・建武4)北畠顕家(きたばたけあきいえ)が後醍醐(ごだいご)天皇の皇子義良親王を奉じて拠(よ)ったのが始まり。この地は南朝に属した伊達行朝(ゆきとも)の勢力下にあり、慈覚(じかく)大師開基と伝える霊山寺を城郭に利用し、衆徒を軍事力に頼んだものである。北朝方により1347年(正平2・貞和3)に落城。

[小和田哲男]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例