鎌倉・南北朝時代の武将。孫七、左衛門尉(さえもんのじょう)、上野介(こうずけのすけ)。剃髪(ていはつ)して道忠と号す。白河(しらかわ)結城氏の祖祐広(すけひろ)の子。1323年(元亨3)北条貞時(さだとき)の十三回忌に銭を進献、32年(元弘2)好島庄(よしまのしょう)内の土地の打渡しの使節を務めるなど、北条氏と緊密な関係を結んで南奥州で重きをなしたが、翌33年護良(もりよし)親王の令旨(りょうじ)、後醍醐(ごだいご)天皇の綸旨(りんじ)を得ると新田義貞(にったよしさだ)に従い鎌倉を落とした。同年北畠顕家(きたばたけあきいえ)が陸奥国司(むつこくし)に任じられるとこれを補佐し、35年(建武2)長子親朝(ちかとも)とともに式評定衆(しきひょうじょうしゅう)に列した。36年(延元1・建武3)顕家とともに陸奥の大軍を率いて西上、足利尊氏(あしかがたかうじ)を九州へ走らせ、翌37年ふたたび尊氏追討のために奥州をたったが失敗、吉野に逃れた。翌年、顕家、義貞が相次いで戦死したため、奥州における南朝勢力再建を企図し、伊勢大湊(いせおおみなと)を出航したが天竜灘(なだ)で暴風にあって吹き戻され、38年10月5日(11月21日ともいう)伊勢光明寺で病没した。なお36年4月嫡孫顕朝(あきとも)に所領を譲り、白河結城氏を継承させている。
[市村高男]
『結城宗広事蹟顕彰会編・刊『結城宗広』(1941)』▽『『福島県史 通史編1』(1969・福島県)』
鎌倉末~南北朝時代の武士。下総結城氏から陸奥国白河荘を分譲された結城祐広の子。左衛門尉,上野介,上野入道。鎌倉末期北条得宗家に属して勢力をのばし,南奥の実力者として活動したが,1333年(元弘3)後醍醐天皇に応じ新田義貞らとともに鎌倉を陥れた。同年8月北畠顕家が陸奥国司となると諸郡奉行などに任じられ,翌年には子の親朝とともに奥州式評定衆に列せられた。36年(延元1・建武3)足利尊氏が後醍醐天皇を追って入洛すると顕家に従って西上,尊氏を九州に走らせた。翌年後醍醐天皇の要請により再び尊氏追討のため出陣したが,翌年5月顕家の戦死によって失敗し吉野に逃れた。吉野で奥州の南朝勢力再建の計画を練り,北畠親房らと義良親王を奉じて伊勢大湊を出航したが,途中暴風にあい伊勢に吹き返され,病死した。津市の結城神社にまつる。36年嫡孫顕朝に家督を譲っている。
執筆者:市村 高男
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(佐々木文昭)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
…そののち寺地は,1681年(天和1)再度現地に移った。当寺は南朝ゆかりの寺で,結城宗広(ゆうきむねひろ)が当寺に拠って衰退する南朝の再挙を計ったが,むなしく当寺で没したという悲史がある。その関係で,有名な《光明寺残篇》など南朝関係の古文書多数がある。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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