霊山寺(読み)リョウゼンジ

デジタル大辞泉 「霊山寺」の意味・読み・例文・類語

りょうぜん‐じ〔リヤウゼン‐〕【霊山寺】

奈良市にある霊山寺真言宗(単立)の寺。山号は、鼻高山。天平年間(729~749)聖武天皇の勅願により建立。開山は行基。鎌倉時代に再建の本堂(国宝)のほか三重の塔・鐘楼などの古建築が残る。れいざんじ。
徳島県鳴門市にある高野山真言宗の寺。山号は、笠和山。開創は天平年間、開山は行基と伝える。四国八十八箇所第1番札所。

れいざん‐じ【霊山寺】

りょうぜんじ(霊山寺)
Chua Linh Son》⇒リンソン寺

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精選版 日本国語大辞典 「霊山寺」の意味・読み・例文・類語

りょうぜん‐じリャウゼン‥【霊山寺】

  1. [ 一 ] 奈良市中町にある霊山寺真言宗の大本山。山号は鼻高山。天平勝宝八年(七五六)聖武天皇の勅願により開創。開山は行基。インドの僧菩提遷那(ぼだいせんな)が創建に協力したと伝えられる。のち荒廃し弘安二年(一二七九)再興。弘安六年の棟札(むねふだ)銘がある本堂は国宝。れいざんじ。
  2. [ 二 ] 徳島県鳴門市大麻町板東にある高野山真言宗の寺。山号は竺和山。院号は一乗院。行基の開創と伝えられる。のち空海が訪れ、天竺の霊山(霊鷲山)にあやかって命名したという。四国八十八箇所の第一番札所。

れいざん‐じ【霊山寺】

  1. りょうぜんじ(霊山寺)[ 一 ]

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日本歴史地名大系 「霊山寺」の解説

霊山寺
りようぜんじ

[現在地名]奈良市中町

なか町の西方、富雄とみお川右岸丘陵上にあり、狭い支谷を挟んだ台地上に堂塔を配する。レイザンジとも称される。鼻高山と号し、霊山寺真言宗大本山。本尊薬師三尊。寺伝によれば、聖武天皇の草創、開山は行基とされる。寺域から奈良時代の古瓦が出土し、奈良時代創建の寺院と認められる。「行基年譜」に「養老二年隆福寺登美を起す、大和国添下郡登美村にあり」とみえ、「続日本紀」宝亀四年(七七三)一一月二〇日条に大和国登美とみ院に田三町を施すとある。寺伝に行基の開基とあることからすれば、登美院は当寺の前身ともみられる。「日本霊異記」中巻に「富の尼寺」がみえる。正嘉二年(一二五八)二月日の大和鳥見荘預所下知状(唐招提寺文書)には当寺について「行基薩陲為済生利物、所草創之道場也、本仏者医王霊像、為除病延命、所安置如来也」とある。


霊山寺
りようぜんじ

[現在地名]鳴門市大麻町板東

大麻町板東おおあさちようばんどう地区の南部、大麻比古おおあさひこ神社の参道入口にある。竺和山と号し、高野山真言宗。本尊は釈迦如来四国霊場八十八ヵ所第一番札所。御詠歌は「霊山の釈迦のみまへにめぐりきてよろづのつみもきへうせにけり」。昔は大坊といって、名東みようどう府中こう(現徳島市)の大坊、板野いたの徳命とくめい(現藍住町)梅之うめの(千光寺)とともに阿波国三坊の一とされた(板野郡誌)。創建の時期は不詳。寺伝によると、天平年中(七二九―七四九)に行基が当地に来て草庵を結んだことに始まり、聖武天皇の祈願所となった。その後弘仁六年(八一五)に四国巡錫の空海がこの草庵にとどまったとき釈迦如来を刻んで本尊仏とし、四国霊場八十八ヵ所の第一番に定めたという。


霊山寺
りようぜんじ

[現在地名]沼津市本郷町

香貫かぬき山の西麓に位置する。兜率山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来。創建の経緯については不詳であるが、古くは真言寺院であったと伝えられる。寛元二年(一二四四)二月二九日の年紀がある十八道私記奥書(金沢文庫蔵)に「香貫郷於尺迦堂北僧坊書写了」とみえ、この「尺迦堂」は当寺にあたると思われる。「西大寺叡尊上人遷化之記」によると正応三年(一二九〇)八月に奈良西大寺叡尊が没した際、忍性が「駿州霊山寺成真宗賢房」を西大寺に派遣している。


霊山寺
りようぜんじ

[現在地名]大分市岡川 秋岡

大野山層群北東端の霊山(五九六メートル)中腹にある天台宗寺院。同山は御宝みたから山・九嶷きゆうぎ山とも称する。和銅元年(七〇八)の創建と伝え、本尊は観音菩薩。「太宰管内志」によると田尻たじりの豪族大神七郎祐世が山中に十一面観音菩薩像を発見、草堂を建立して安置したが、その後渡来僧那伽が霊山を望み、西域の霊鷲山の一塊が飛来したものではないかと感嘆して伽藍を建立、観音像を移し飛来山霊山寺と命名したと伝える。

建武三年(一三三六)七月二八日の稙田寂円軍忠状(早稲田大学所蔵後藤文書)に寺名がみえ、敷戸孫次郎入道普練・賀来弁阿闍梨・同舎弟孫五郎などが七月当寺に入り、二五日当山衆徒と相語らって稙田大輔房有快の館に押寄せ数十宇の在家を焼払った。


霊山寺
れいざんじ

[現在地名]清水市大内

大内おおうち集落の北西方、梶原かじわら山の中腹に位置する。鷲峰山と号し、高野山真言宗。「りょうぜんじ」などともいう。本尊は行基作と伝える千手観音。同観音は江戸時代には駿河安倍七観音の一として信仰を集め、当寺は大内観音と通称される。慶長七年(一六〇二)には観音堂領として大内郷内で朱印高一二石余を与えられた(寛文朱印留)。国指定重要文化財の山門(仁王門)は元来仁王堂として建てられた。永正一三年(一五一六)二月八日の棟札に「大檀那朝比奈福寿庵恵妙」とみえ、朝比奈恵妙によって寄進・造立され、大永五年(一五二五)七月三日朝比奈春定によって再建されている(棟札)


霊山寺
れいざんじ

[現在地名]伊賀町下柘植

霊山(七六五・八メートル)の中腹西側にある。山号法興山、黄檗宗、本尊十一面観音。貞享年間(一六八四―八八)に書かれた寺蔵の縁起や「三国地志」によると、嵯峨天皇の勅願によって最澄が霊山山頂に創建。のち源頼朝の信仰を得て栄えたが、織田信長の伊賀攻略時兵火にかかり諸堂焼失。延宝年間(一六七三―八一)柏野かしわの転輪てんりん寺の僧瑞見が霊山中腹に再建、天台宗から黄檗宗に改宗したと伝える。


霊山寺
りようぜんじ

[現在地名]高槻市霊仙寺

高野山真言宗、鶴林山と号し、本尊不動明王。寺伝によると宝亀九年(七七八)開成皇子開創という。「摂陽群談」には「霊仙寺」として、延暦年中(七八二―八〇六)桓武天皇勝尾かつお(現箕面市)に行幸した際、女瀬によぜ川のほとりで山の頂に紫雲を見、兄弟の開成皇子にこれを告げた。皇子が訪れたところ不動明王の石像を得たので勅命を請い、伽藍を草創して石像を安置し、坊舎三〇余宇に各々寺座を与えた。天正年中(一五七三―九二)高山右近に焼打ちされたが、かや坊の弘清が本尊を背負って丹波に逃げ、乱世が治まってから再び霊仙寺りようぜんじ村を訪れ再興した。本尊を一言不動というのは、一言祈れば願いが必ずかなうためという。


霊山寺
りようぜんじ

[現在地名]里庄町里見

通称西にし山の丘陵東端部別所べつしよにあり、虚空蔵こくぞう山を奥院とする。高野山真言宗、山号三部山、本尊釈迦如来。元文(一七三六―四一)頃の鴨方領明細帳(池田家文庫)によれば弘法大師の開基で末寺六坊があり、往古は堂塔・大伽藍が立並び、細川通董の崇敬を受けたと伝える。また天正三年(一五七五)九月一一日の棟札があると記す。「備中誌」によれば寺僧の伝えとして本坊・霊山寺・南台坊・辻の坊・中の坊・東の坊・西の坊などが存在したという。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「霊山寺」の意味・わかりやすい解説

霊山寺(奈良市)
りょうぜんじ

奈良市富雄中(とみおなか)町にある霊山寺真言(しんごん)宗(単立)の寺。山号は鼻高山(びこうさん)または登美山(とみさん)。本尊は薬師如来(やくしにょらい)。推古(すいこ)天皇のとき小野富人(おののとみひと)(小野妹子(いもこ)の子)が湯屋(とうおく)をつくり、薬師如来を安置して病人たちを治療したのに始まり、聖武(しょうむ)天皇の勅命で、736年(天平8)行基が堂塔を建立し、東大寺大仏開眼(かいげん)のため来日した婆羅門僧正(ばらもんそうじょう)(菩提僊那(ぼだいせんな))が霊山寺と名づけたと伝える。1283年(弘安6)北条時頼(ときより)が寺領を寄進し、堂宇を再建した。本尊の薬師三尊像(国重要文化財)は1067年(治暦3)の作。そのほか十一面観音(かんのん)像(平安初期)、運慶作の地蔵菩薩(ぼさつ)など重文指定の仏像が多い。また本堂(鎌倉時代)は国宝、三重塔(鎌倉時代)、鐘楼(室町時代)、1384年(元中1・至徳1)建立の鎮守社殿三棟は重文に指定されている。

宮坂宥勝


霊山寺(徳島県)
りょうぜんじ

徳島県鳴門(なると)市大麻町にある高野山真言(こうやさんしんごん)宗の寺。竺和(じくわ)山一乗院と号する。四国八十八か所霊場第一番札所で、「一番さん」とよばれる。本尊は釈迦如来(しゃかにょらい)。天平(てんぴょう)年間(729~749)聖武(しょうむ)天皇の勅願により行基(ぎょうき)が開基し、のち弘仁(こうにん)年間(810~824)空海が天竺(てんじく)(インド)の霊鷲山(りょうじゅせん)を和国(日本)に移す意味で竺和山霊山寺と名づけた。かつては阿波(あわ)三大坊の一つとして、伽藍(がらん)が整った大寺であったが、天正(てんしょう)年間(1573~92)長宗我部元親(ちょうそがべもとちか)の兵火で諸堂を焼失し、のち再建された。しかし、1891年(明治24)本堂と多宝塔を残し焼失したが、順次再建されている。

[眞柴弘宗]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「霊山寺」の意味・わかりやすい解説

霊山寺
りょうせんじ

奈良市中町にある真言宗の寺。山号は鼻高山。インド人の僧,菩提僊那 (婆羅門僧正) と行基の創建に成るもので,聖武天皇の勅願所であった。本尊薬師三尊は治暦2 (1066) 年の作。本堂 (国宝) ,三重塔は弘安6 (1283) 年の鎌倉建築。寺域に婆羅門僧正の墓がある。

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デジタル大辞泉プラス 「霊山寺」の解説

霊山(りょうせん)寺〔奈良県〕

奈良県奈良市中町にある真言宗の寺院。「りょうぜんじ」とも読む。山号は鼻高山(または登美山)、本尊は薬師如来。聖武天皇の勅願による創建と伝わる。本堂は国宝、三重塔、鐘楼などは国の重要文化財に指定。200種ものバラが咲く薔薇園がある。

霊山(りょうぜん)寺〔徳島県〕

徳島県鳴門市にある寺院。高野山真言宗。山号は竺和(じくわ)山、寺号は一乗院。本尊は釈迦如来。天平年間(729~749)の開基と伝わる。四国八十八ヶ所霊場第1番札所で、「一番さん」とも呼ばれる。

霊山(りょうぜん)寺〔大分県〕

大分県大分市にある天台宗の寺院。霊山中腹に位置する。山号は飛来山、本尊は十一面観世音菩薩。708年創建とされる。「霊山観音」とも呼ばれる。

霊山寺

静岡県静岡市清水区にある真言宗の寺院。1516年建築の仁王門は国の重要文化財に指定されている。

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百科事典マイペディア 「霊山寺」の意味・わかりやすい解説

霊山寺【りょうぜんじ】

霊山城

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事典・日本の観光資源 「霊山寺」の解説

霊山寺(第1番)

(徳島県鳴門市)
四国八十八箇所」指定の観光名所。

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世界大百科事典(旧版)内の霊山寺の言及

【保国寺】より

…中国,浙江省寧波(ニンポー)市西北の霊山山麓にある仏寺。創建年代は不詳だが古くは霊山(りようぜん)寺と称し,会昌滅法(三武一宗の法難)の後,唐代の880年(広明1)に再興して保国寺と改めたという。寺は南向き斜面の段状伽藍に諸堂や方池を配する。…

【霊山城】より

…陸奥国伊達郡の東端にそそり立つ霊山に築かれた南北朝期の城(現,福島県霊山町)。信仰の山として慈覚大師開基という霊山寺が営まれ,最盛時3600坊の勢力を誇ったといわれるが(《霊山寺縁起》),1337年(延元2∥建武4)1月,鎮守府大将軍陸奥大介の北畠顕家が陸奥大守の義良(のりよし)親王を奉じて入山し,城郭を整備して国府の機能をここに移すに及び,あらためて全国的に注目された。山頂近くの国司館といわれる5間×4間の大礎石群を中心として,数多くの遺構が確認されている。…

【関東十八檀林】より

…しかし最後にできた深川霊巌寺は24年(寛永1)の開山であるので,制度としての確立はそれ以降のことである。かくして成立した十八檀林は,開山の年代順に相模鎌倉光明寺,武蔵鴻巣勝願寺(埼玉県鴻巣市),常陸瓜連常福寺(茨城県那珂郡瓜連町),江戸芝増上寺,下総飯沼弘経寺(茨城県水海道市),下総小金東漸寺(千葉県松戸市),上総生実(おゆみ)大巌寺(千葉市),武蔵川越蓮馨寺(埼玉県川越市),武蔵滝山大善寺(東京都八王子市),武蔵岩槻浄国寺(埼玉県岩槻市),常陸江戸崎大念寺(茨城県稲敷郡江戸崎町),上野館林善導寺(群馬県館林市),下総結城弘経寺(茨城県結城市),江戸本所霊山(りようぜん)寺(東京都墨田区),江戸下谷幡随院(東京都小金井市,もと台東区浅草神吉町),江戸小石川伝通院,上野新田大光院(群馬県太田市),江戸深川霊巌寺(東京都江東区)である。学問所としての檀林はやがて幕府の寺院統制下で行政の一端をにない,一,二の変動はあったが宗教行政の中心となった。…

※「霊山寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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