日本歴史地名大系 「青梨子村」の解説 青梨子村あおなしむら 群馬県:前橋市青梨子村[現在地名]前橋市青梨子町北は野良犬(のらいぬ)村・上青梨子村、東は高井(たかい)村、南は北原(きたはら)村・西国分(にしこくぶ)村(現群馬郡群馬町)、西は金古(かねこ)村(現同上)。元和三年(一六一七)五月二六日の花房右馬介宛の徳川秀忠知行宛行状(記録御用所本古文書)では「上野軽免村・大窪・青梨」など合計二四三石余が与えられている。寛文郷帳に田方七二石九斗・畑方三七〇石五斗余とあり、田方に旱損と注記される。正徳元年(一七一一)の村明細帳(桜井文書)によれば、高四四三石四斗余で、新田畑が一〇町七反余あり、家数六〇・人数三三八(うち修験三・神子一・道心一・出家三)、馬二二であった。 青梨子村あおなしむら 群馬県:多野郡万場町青梨子村[現在地名]万場町青梨(あおなし)神流(かんな)川が蛇行しつつ北境を東流し、川沿いに十石(じつこく)街道が通る。東は小平(こだいら)村、南は武蔵国秩父(ちちぶ)郡藤倉(ふじくら)村(現埼玉県秩父郡小鹿野町)、西は魚尾(よのお)村(現中里村)と接する。薬師堂の天正一二年(一五八四)銘の棟札に「大日本国髪流川之郡青梨子郷」とあった(元禄一三年「国境画定願状」黒沢文書)。近世はおおむね幕府領。元禄郷帳には枝村として高谷木(こうやぎ)村を載せる。元禄一一年(一六九八)の検地帳(梅島文書)によると耕地は畑のみで三九町一反三畝余、うち上・中畑は一町余で切代畑が二八町三反余を占める。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報