静賢(読み)じょうけん

朝日日本歴史人物事典 「静賢」の解説

静賢

没年:没年不詳(没年不詳)
生年天治1(1124)
平安末期・鎌倉初期の僧。静憲とも書く。藤原通憲(信西)と高階重仲の娘の子。幼時より仏門に入っていたがいわゆる学僧ではなく,後白河院に親近し,法勝寺執行を勤め,政界と常にかかわりを持ち続けていた。平治の乱(1159)で父信西に連座,配流されたが間もなく召還。その後は院と平家の対立,源平争乱のただなかにあって,院の使者として各勢力と折衝。後白河院がこの激動渦中を生き残り,再び権力を掌握するために不可欠な,いわば懐刀的な人物であったといえよう。一方,文化面でも画事に関心を持ち,和歌にも優れており,『千載和歌集』に6首入集。建仁1(1201)年ごろまで足跡がみえるが没年は不詳である。なお,『愚管抄』には鹿ケ谷山荘は静賢のものであったとある。<参考文献>目崎徳衛『出家遁世』

(木村真美子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「静賢」の解説

静賢 じょうけん

1124-? 平安後期-鎌倉時代の僧,歌人
天治(てんじ)元年生まれ。藤原通憲(みちのり)(信西(しんぜい))の子。天台宗。京都の法勝寺(ほっしょうじ)執行(しゅぎょう)。平治の乱では一時丹波に流される。後白河法皇に近侍し,源義仲,平宗盛らとの交渉にあたった。歌は「千載(せんざい)和歌集」などに収録されている。建仁(けんにん)元年(1201)以降の活動は不明。法名は静憲ともかく。

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