平泉町北端の
開山について、寛文五年(一六六五)の中尊寺由緒書上(仙岳院文書)に「仁王五十四代仁明天皇之御宇、嘉祥年中慈覚大師之為開基、其後仁王七十三代堀川・鳥羽二代之勅願、勅使按察顕隆卿也」、安永四年(一七七五)の中尊寺弘台寿院書出(中尊寺文書)は、嘉祥三年(八五〇)慈覚大師開山、その後数百年を経ての清衡再興を伝える。「吾妻鏡」文治五年(一一八九)九月一七日条所収の寺塔已下注文によれば、清衡が平泉に移って最初に手がけたのが中尊寺の草創であった。この地域は古くから陸奥国の「内なる境」として
前掲安永四年書出は、陸奥国は「南ハ白河之関より北ハ外ケ浜ニ到り、其中央に当寺相建候故中尊寺と号せり」と記し、「吾妻鏡」の記事を引いて寺号の由来とする。「平泉雑記」も同説で、陸奥中央説が一般的であるが、ほかに最大伽藍の大長寿院二階大堂の大阿弥陀像が中尊にふさわしくそれによるとする説、人の理想像「人中の尊」に基づき当地を法界の中心道場とする理念を表したものという説がある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
岩手県西磐井郡平泉町にある天台宗の東北大本山。山号は関山。寺伝によれば,850年(嘉祥3)円仁の開創で,859年(貞観1)に清和天皇より中尊寺の号を賜ったと伝えるが,資料を欠く。平安末期に藤原清衡が平泉に移り住み,諸堂宇の建立に着手した。1126年(大治1)の金堂落慶供養願文により,前九年・後三年の役を経て奥羽地方の覇者となった清衡が,奥羽におとずれた平和を記念し,非命にたおれた敵味方の霊をとむらうための鎮魂の寺としてこれを営み,あわせて鎮護国家の根本道場にしようとしたものであったことがわかる。その後基衡,秀衡も相次いで寺基を拡張した。当時の記録によれば,堂塔40余宇,僧坊300余宇と伝えられ,結構皆金色と称され,平安美術工芸の粋をきわめたが,1337年(延元2・建武4)野火のために堂塔僧坊を焼失し,現在に残るものは金色堂と経蔵の二つだけである。最近,中尊寺は,法華経にもとづいて,その講宣・如法の功徳により,みちのく此土浄土(地上極楽)の理想を実現しようとしたものであると考えられるようになってきた。皆金色というのも,その地上極楽を現成するためのものだったと考えられる。中尊寺の寺号も〈仏人中尊寺〉の義で,法華経にもとづく〈釈尊寺〉の意味であった。清衡建立の中尊寺最初院が多宝寺と呼ばれたこと,その金堂が百体釈迦金堂であったことなど,すべて法華経にもとづき,此土浄土現成の祈りを具現しようとしたものだったと考えられる。金色堂が浄土教信仰を表にしていることはいうまでもないが,ほかに密教とともに法華経にもとづく多宝塔信仰もあり,3代のミイラもこの多宝塔信仰によるものと思われる。
執筆者:高橋 富雄
金色堂(国宝)は清衡晩年の1124年(天治1)に造立され,清衡没後4代にわたって一族の墓堂となった。小型の一間四面堂で,軸部は円柱,四方内外を長押(なげし)で固め,柱上平三斗とし,中備えに本蟇股(ほんかえるまた)を入れる。軒は二軒繁垂木,屋根は宝形造・本瓦形板葺きで,頂上に露盤,宝珠をのせる。堂内は床板張り,庇天井(ひさしてんじよう)を化粧屋根裏とし,内陣四天柱内には折上小組格天井(ごうてんじよう)を張る。四天柱と側柱間には繫梁(つなぎばり)を入れ,簡単な構造形式をとっている。堂内中央と背面両脇に須弥壇を置き,中央壇内に清衡,両脇奥の壇内に基衡,秀衡の3棺と,4代泰衡の首級が合祀される。堂の縁側から軒先にいたる四壁と内部の床,天井はすべて黒漆金箔押しとし,内陣部材には沃懸地(いかけじ)螺鈿の宝相華唐草文を飾り,四天柱には蒔絵で菩薩像を描く。中央須弥壇は全面に金,銀,白銅の競合する色彩を巧みに配した彫金,鋳金,鍛金による金具で覆われる。須弥壇上にはそれぞれ,阿弥陀三尊,六地蔵,二天の11体(いずれも重要文化財)を安置する。中央壇上の諸像は1124年,南西壇上諸像は基衡没年といわれる1157年(保元2)ころ,北西壇上諸像は秀衡没年の1187年(文治3)ころの造立と推定される。南西壇の阿弥陀像が客仏であるほかは,各本尊の天蓋や礼盤(らいばん),孔雀文磬(けい),磬架,案,華鬘(けまん)などの荘厳具一式(国宝)にいたるまで当初のままに残され,美術史上の価値はきわめて高い。金色堂は一名〈光堂(ひかりどう)〉と呼ばれるが,中世に建立された覆堂内にあった。今日この覆堂は他に移され,新しい覆堂内に建っている。
金色堂北西に東面する経蔵(国宝)は,金色堂とともに清衡によって建てられたが,1337年上部を焼失し,単層に改められた。堂内中央内陣の螺鈿八角須弥壇(国宝)は,金色堂須弥壇とともに精緻をきわめ,和様須弥壇の代表的遺例。もと経蔵に納められていた《紺紙金字一切経》(国宝)は清衡以下3代奉納にかかり,これらを納めた漆塗箱とともに国宝に指定されている。
執筆者:宮本 長二郎
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岩手県西磐井(にしいわい)郡平泉(ひらいずみ)町平泉に所在する天台宗東北大本山。関山(かんざん)と号し、山内の寺塔僧房を総称して中尊寺という。本尊は阿弥陀如来(あみだにょらい)。850年(嘉祥3)慈覚(じかく)大師円仁(えんにん)が開創、初めは弘台寿院(こうだいじゅいん)と称したが、859年(貞観1)清和(せいわ)天皇勅命によって現寺号に改められた。1105年(長治2)藤原清衡(ふじわらのきよひら)が堀河(ほりかわ)天皇の勅命を受けて再興、21年間にわたって大長寿院、金堂、三重塔3基、鐘楼、経蔵、阿弥陀堂、大門などを建立、1126年(大治1)には盛大な落慶供養が行われた。その発願文(ほつがんもん)はいまも残されており、前九年・後三年の役の戦功で陸奥押領使(むつおうりょうし)に任ぜられた清衡が、戦没者を供養し、奥州に仏国土建設を図った趣意が記されている。このときに中尊寺は堀河、鳥羽(とば)両天皇の勅願所となり、慶源が別当に任ぜられた。
清衡の子基衡(もとひら)、孫秀衡(ひでひら)も後を継いで毛越寺(もうつうじ)、観自在王院(かんじざいおういん)、無量光院(むりょうこういん)などを建立、堂塔40余、僧房300余を数えるに至り、藤原三代によって平泉文化が華麗に築かれていった。しかし1189年(文治5)4代泰衡(やすひら)が源頼朝(よりとも)に討たれて藤原氏は滅亡、寺は頼朝によって保護修理され守られたが、1337年(延元2・建武4)の火災で金色(こんじき)堂(国宝)、経蔵(国重要文化財)の一部を残して焼失した。金色堂は1288年(正応1)鎌倉将軍惟康(これやす)親王が執権北条貞時(ほうじょうさだとき)に命じて建立させた覆堂(さやどう)によって守られた。天正(てんしょう)年間(1573~1592)に豊臣(とよとみ)秀吉が寺領に7か村を寄付、さらに江戸時代には伊達(だて)氏が諸堂舎を再建修理した。1665年(寛文5)には東叡(とうえい)山輪王寺(りんのうじ)の直末(じきまつ)となり、1676年(延宝4)輪王寺宮により法度(はっと)を下され、維新後は比叡山直末となる。現在、山内に金色堂、経蔵のほか、弁慶堂、本坊、鐘楼、開山堂、鎮守社白山社などが点在し、境内は特別史跡に指定されている。
金色堂は1124年(天治1)清衡が自らの葬堂として財力を惜しまずに建てた阿弥陀堂形式の堂で、一名光堂(ひかりどう)とよばれる。のち基衡、秀衡の廟所(びょうしょ)ともなった。内陣には藤原氏三代の遺体を納めた三つの須弥壇(しゅみだん)があり、各壇上にはそれぞれ阿弥陀如来を本尊とする11体の仏像(国重要文化財)が安置されている。須弥壇、柱、天井、組物などには金銀、螺鈿(らでん)、珠玉がちりばめられ、平安末期の美術工芸の極致といわれる。なお1962年(昭和37)から6年にわたって解体修理が行われ、旧覆堂(国重要文化財)を他に移し、新しく鉄筋コンクリート造の覆堂がつくられた。寺宝は非常に多く、金色堂堂内具の孔雀文磬(くじゃくもんけい)および磬架(けいか)、木造天蓋(てんがい)、金銅華鬘(けまん)などと、経蔵内陣の螺鈿八角須弥壇、紺紙金字一切経(こんしきんじいっさいきょう)(2739巻)などが国宝に指定。そのほか金光明最勝王経金字宝塔曼荼羅(こんこうみょうさいしょうおうきょうきんじほうとうまんだら)、紙本墨書供養願文、木造一字金輪(きんりん)像(以上国重要文化財)のほか多数の仏像、仏具など、山内17か院に伝わる文化財や美術品3000余点が讃衡蔵(さんこうぞう)(宝蔵)に収蔵保管されている。
[中山清田]
『石田茂作著『中尊寺大鏡』全3巻(1941・大塚巧芸社)』▽『藤島亥治郎監修『中尊寺』(1971・河出書房新社)』▽『『中尊寺と藤原四代――中尊寺学術調査報告』(1950・朝日新聞社)』
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岩手県平泉町にある天台宗東北総本山。関山と号す。1105年(長治2)藤原清衡(きよひら)がたてた最初院多宝寺に始まり,26年(大治元)から中尊寺と称した。願文には,前九年の役・後三年の役の戦地を仏土とし,戦死した官軍・夷虜(いりょ)(えびす)の霊を浄土に導くためとある。以後2代基衡・3代秀衡により堂宇が整えられ,「吾妻鏡」には寺塔40余宇,禅坊300余宇,金色堂は「四壁内殿皆金色」と記された。藤原氏滅亡後も,幕府により寺領を安堵されたが,南北朝期に火災で金色堂(国宝)と経蔵の1階(重文)以外は焼失。「紺紙金字一切経」・経蔵堂螺鈿八角須弥壇(しゅみだん)などの国宝をはじめ,奥州藤原文化の美術工芸品多数を所蔵し,現在寺宝は讃衡(さんこう)蔵に納める。境内は国特別史跡。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報
…藤原清衡,基衡,秀衡,泰衡の4代をいう。清衡,基衡,秀衡3代のミイラ化した遺体と泰衡の首が岩手県中尊寺金色堂の須弥壇の下に葬られている。奥州藤原氏は,かつては蝦夷の出身でアイヌの血をひくものと考えられていた。…
…平安時代末の12世紀,奥州藤原氏代の保護のもとに,その居館のあった平泉を中心に開花した仏教文化。平泉は,その盛時には中尊寺(ちゆうそんじ),毛越寺(もうつじ),無量光院(むりようこういん)などの大寺院が甍(いらか)を並べ,日吉,白山,祇園,王子,北野天神,金峰山,今熊野,稲荷などの諸社が計画的に配置された都市であった。 中尊寺は藤原清衡(きよひら)によって1105年(長治2)に着工され,26年(大治1)3月24日に落慶供養が行われた天台系の寺院で,このときの堂宇は,供養願文によれば三間四面の檜皮葺堂1宇,三重塔3基,二階瓦葺経蔵1宇,二階鐘楼1宇というものであったが,《吾妻鏡》の文治5年(1189)9月17日条では,寺塔60余宇,禅坊300余宇といわれている。…
※「中尊寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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