平安後期の官僚。俗名藤原通憲。父は一﨟の蔵人(六位蔵人の筆頭)実兼。7歳のとき,父が才智を惜しまれながら28歳の若さで急死したためか,高階経敏の養子となり,さらに高階重仲の女をめとり,高階氏を称して朝廷に出仕した。1127年(大治2)六位蔵人から従五位下に進み,ついで院判官代に補されて鳥羽上皇に近仕し,また日向守に任ぜられたが,43年(康治2)官途に見切りをつけて出家の許可を奏請した。通憲の才幹を惜しんだ上皇はこれを許さず,少納言に抜擢したが,通憲は翌年藤原の本姓に復した後,39歳で出家した。法号は初め円空と称したが,まもなく信西と改めた。しかし法体となった信西は,同じく法体の上皇にいちだんと親近し,院近臣グループのリーダー格にのしあがった。また35年(保延1)ころ,紀伊守藤原兼永の女朝子をめとったが,これが後白河天皇の乳母として有名な紀二位で,この縁により信西は天皇の践祚後さらに勢威を伸ばした。ことに保元の乱前後の活躍は目覚ましく,天皇方の謀主となって勝利をおさめ,死刑を復活し,摂関家の分裂に乗じてこれを抑圧し,天皇親政をうたって新制(保元新制)を発布し,記録所を設け,平安内裏を復興した。しかし58年(保元3)天皇が二条天皇に譲位して上皇になると,天皇・上皇の近臣間の権力争いが激化し,信西もそれに巻き込まれた。また保元の乱で父や弟を斬刑に処された源義朝は,その後もおのれをうとんじ,平清盛に親近する信西に憤りをいだいた。かくて59年(平治1)信西の政敵藤原信頼と義朝が兵を挙げるや(平治の乱),信西は奈良に逃げのびようとしたが,途中追跡の兵に発見されて自殺した。時に54歳。信西の和漢の古典・古事にわたる博識多才を物語る逸話は少なくないが,著書には《本朝世紀》《法曹類林》などがあり,また現在一部が伝存する《通憲入道蔵書目録》によっても,その学識の広さをうかがうことができる。
執筆者:橋本 義彦
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…保元の乱に勝った後白河天皇は1158年(保元3)に退位して院政をはじめるが,その間に院近臣や武士のあいだに権力争いがはげしくなっていた。院権臣の信西(藤原通憲)と藤原信頼とは互いに権勢を競って対抗し,とくに信西が信頼の近衛大将の就任を阻止したことによってその抗争は深刻なものとなった。一方,武士の棟梁のなかでは,平清盛と源義朝が相互に競って中央政界への進出をはかったが,保元の乱で武勲第一の義朝が左馬頭にとどまり,清盛が播磨守・大宰大弐になったことは,義朝に大きな不満を抱かせ,その反目が鋭くなった。…
…平安時代末期に著された法制書。編者は藤原通憲(信西)。230巻とも730巻とも伝える大部の書であったが,今は巻192,197,200の3巻が残るにすぎない。…
※「信西」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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