日本歴史地名大系 「須巻村」の解説 須巻村すまきむら 新潟県:北蒲原郡黒川村須巻村[現在地名]黒川村須巻高坪(たかつぼ)山東側の袋状を呈した山裾に位置し、東・西・南の三方を山に囲まれる。須巻川・釜塗(かまぬり)川の間に集落がある。村名の由来は上野桐生(きりゆう)郷(現群馬県桐生市)の農民が来住し数種類の種をまいて村を開いたので「数牧村」と称したとも伝える(皇国地誌)。元亨元年(一三二一)七月二一日の佐々木(加地)有綱打渡状(三浦和田氏文書)に奥山(おくやま)庄草水(くそうず)内として「栖巻」とみえ、和田又四郎(黒川章連)に打渡されている。 須巻村すまきむら 石川県:珠洲市須巻村[現在地名]珠洲市若山町洲巻(わかやままちすまき)白滝(しらたき)村の西にあり、山三箇(やまさんが)の一。寛永二年(一六二五)の済状(洲巻区有文書)に洲巻村とみえ、史料上は須巻・洲巻ともに現れる。この済状は地内の細瀬山をめぐって北山(きたやま)村と山出入になった際、南山(みなみやま)村の九郎兵衛が天正元年(一五七三)の山境証文で検分、境を分明したものであるが、当時は南山村の内で、寛永八年の南山氏の闕所に伴い、分離独立したと考えられる。同九年の南山年貢納所帳(尾間谷文書)に「南山之内すまき」とあり、四町九反余、分米一石五斗代、毛付高七四石に対し物成二ツ六歩。正保郷帳では洲巻村とあり、反別内訳は田三町九反余・畑一町余。承応四年(一六五五)の改帳(向文書)では高七六石余・免三ツ五厘、有家七のうち役家六、人数二八のうち農人一四・塩薪出者一四、馬一一となっている。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by